研究者Uさんの聖書講座のシリーズです!
【出エジプト記/モーセ】④ 「十の災い」と「過越祭」【研究者Uの聖書講座】
前回までの記事はこちらをチェックしてくれ~
ユダヤ教の聖書解釈を専門にしている「研究者U」です。
今回は、ヘブライ語聖書(いわゆる「旧約聖書」)の「出エジプト記」に関して、
「脱出した人数は何人か?」
「『出エジプト』は、いつ頃起きたのか?」
「そもそも本当に起きたのか?」
を中心に見ていきましょう。
目次
「60万人」の男子?
デヴィット・ロバーツ『エジプトを去るイスラエルの民』
(バーミンガム美術館、バーミンガム)
神が引き起こした「十の災い」を前に、
ファラオはとうとう、イスラエルの民が出ていくのを許したんでしたね。
その人数が……。
ここに、妻子やその他の人々も含めたら、200万人ぐらいにはなりそうです……。
そこに家畜も含めるなんて、想像もできない数マボ……。
1人ひとりが前後1mの間隔をとって、200万人が集団行動すると、先頭と最後尾が200km以上離れることになります。
先頭がパレスチナに入る頃になって、最後尾はようやくエジプトを出るような計算です。
エジプトから持ち出した練り粉で、パン菓子を焼いた」
って書いてますけど、200万人分のパンを焼くって、結構悠長な感じになりそうマボよねえ。
出エジプトはいつのことか
①前1450年頃説(聖書の年代から計算)
正解はなく、いろんな考えがあるわけマボねえ。
これは、聖書の記述から算出しています。
「エルサレムで、ソロモンという王が前965年頃に神殿を作った」
という記述が『列王記』の中にあります。
ギュスターヴ・ドレ『知者ソロモンの裁き』
紀元前965年頃に神殿が建てられたことは確かなようです。
聖書中の記述を計算すると、出エジプトはこの神殿建設から480年前であることから、
「紀元前1450年説」
となるわけです。
ただし、この説は聖書本文にしか根拠はありません。
②前1250年頃説(聖書外資料から計算)
「紀元前1207年にエジプトのメルネプタハ王がカナンの地の『イスラエル』という人々を征服した」
という碑文が残っています。
ということは、
「紀元前1207年の時点でカナンの地にイスラエルの民が入っている」
ということになるわけです。
このことから、紀元前1207年の40年前にエジプトを出た、
すなわち出エジプトは紀元前1250年頃だ、という説になるわけです。
ただしこれは、説①の聖書中の記述と矛盾してしまいます。
【推測】③前1450年頃から「徐々に」説 ④全く起こらなかった説
まずは、聖書中の記述のような大規模な脱出が一度に起きたのではなく、
「紀元前1450年頃から、小規模な逃亡が何度も繰り返された」
という説。
後になって、聖書において大げさに書いた、というわけですね。
聖書の記述は否定してしまいますけど。
「そもそも出エジプトなんてなかった」
という説です。
これももちろん、聖書の年代も内容も否定するものではあります。
「歴史的事実」かのように教科書へ書いてよいのか?
「出エジプト」については、聖書中の言及はあるものの、
正確な年代は特定されていませんし、
そもそも、「出エジプト」があったのかすらも史実かどうかは不明です。
しかし、「世界史」と書かれた資料でも、
「出エジプト」が、歴史的事実かのように語られることがあります。
まがいまさこ(2010)
『図解 世界史』(西東社)より
「出エジプト」があったかどうかだって、断言できない、という話でした……はて……。
これらを「歴史的事実」かのように「世界史」を名乗る資料に載せてよいのか、というのは重要なポイントだと思います。
イコール「歴史的事実」とは限らない、というわけマボねえ。
この続きについては、次回の記事で見ていきましょう。
まとめ
- 「60万人の男子」が脱出したという聖書中の描写は、事実とは考えにくい
- 「出エジプト」がいつの出来事なのか、そもそも本当にあったことなのかも、不明
- 「歴史的事実」と証明されていないことでも「歴史」の教科書に載っていることがある
研究者Uさんの、「聖書」に関する専門講義の続きはこちらをチェックまぼ!
参考記事
出エジプト記
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