【スペイン/歴史/簡単に】①【古代】カルタゴ→ローマ帝国→西ゴート王国への変遷

こんにちは、はてはてマンボウです。

今回はスペインの歴史マボかあ。

マンボウちゃんは、スペインと聞いたらどんなイメージかな?
梓
そうねえ、パエリア食べたり、サッカーしてたり、フラメンコ踊ったり……

陽気なラテン系の人たちの集まりって感じかしらねえ、はってはて♪

ところが、スペイン王国のあるイベリア半島は、実は様々な民族が入り乱れながら歴史の変遷をたどってきたんだ

今回は、イベリア半島の古代の歴史を見ていくよ。

梓
はて!

そりゃあ、気になるわねえ。さっそくチェックまぼ!

カルタゴの支配とポエニ戦争

フェニキア人の「カルタゴ」

かつて、地中海沿岸の海上交易で栄えたフェニキア人と呼ばれる民族がいた。

 

このフェニキア人が、アフリカ大陸の北岸に作った国家が「カルタゴ」

 

カルタゴは、イベリア半島の南部も支配していたんだけど、やがて地中海の反対側、イタリア半島に拠点を持つローマとぶつかるようになる。

梓
はて、ちょっと待ってください。

イベリア半島って、いまのスペインのあるヨーロッパですよね?

カルタゴはアフリカの国なのに、どうしてイベリア半島を支配していたんですか?

ヨーロッパってアフリカから遠いんじゃ?

たしかに、ヨーロッパとアフリカって全然違う場所のような気がするよね。

では、この図を見てごらん。

梓

カルタゴの支配地域

Wikipedia「カルタゴ」の図に加筆の上、作成

2021年9月4日閲覧)

 

はて!

地中海を挟んで、ヨーロッパのイベリア半島とイタリア半島、それにアフリカ大陸ってこんな近くにあるマボか!

ポエニ戦争

というわけで、当時拡大を続けていたイタリアを拠点とするローマと、

イベリア半島も支配域に含むカルタゴが激突。

 

紀元前2世紀、西ヨーロッパの覇権をかけた、約1世紀にも及び3回もの激突を繰り返したこの戦いは「ポエニ戦争」と呼ばれる

 

第二次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバル・バルカが象を引き連れてピレネー山脈、アルプス山脈を越え、イタリアまで攻め込むなど、ローマを徹底的に追い込んだんだ。

梓

 

ゾウさんを連れて、山脈を2つも超えたマボか。

お、恐ろしいマボねえ……。

しかし、ハンニバルはローマの将軍・スキピオに反撃を受けてしまい、第二次ポエニ戦争はローマの勝利に終わる。

その後、第三次ポエニ戦争でカルタゴは滅亡。

ローマは、カルタゴから受けてきた侵略への報復として北アフリカのカルタゴの都市を完全に破壊し、この地に雑草一本生えるのも許さないと大地に塩がまかれた

梓

 

ウィリアム・ターナー『カルタゴ帝国の衰退』

(テート・ブリテン、ロンドン)

 

カルタゴの衰亡により、イベリア半島の支配主はローマへと変わっていく。

 

ローマの征服後、徐々に繁栄を取り戻したイベリア半島は、ローマ帝国の最大版図を築いたトラヤヌス帝を輩出するなど、大いに栄えることになる。

梓

 

西ローマ帝国の滅亡から西ゴート王国の誕生へ

ゲルマン人のイベリア半島統一

さて、4世紀にもなると、ローマ帝国の力が衰え始め、様々な異民族が帝国内に侵入し始める。

 

これらを駆逐し、やがてイベリア半島支配の実権を握るようになったのが、ゲルマン人の一派による西ゴート王国だ。

梓

ローマ帝国が衰退すると、さまざまな民族がイベリア半島に侵入してきた。

スエヴィ族、ヴァンダル族、アラン族が、ヒスパニアとガリア(※)の一部の実権を握り、半島に新たな社会的慣習と国家の概念をもたらした。

しかしローマ帝国と同盟を結んだ中央ヨーロッパの西ゴート族が、これらの民族を駆逐する。

そしてレオビヒルド王のときに、トレドが正式に王国の首都と定められた。

〔※ガリア:現在のフランスを中心とした地域〕

 

マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ、青砥直子訳(2016)

『ヴィジュアル版 スペイン王家の歴史』(原書房)

 

イベリア半島って、ローマ帝国の後はゲルマン人が支配していたんですねえ。

ところで、トレドって聞いたことないけど、どんな町マボか。

トレドは、マドリードが首都として定着する前に、様々な王国が首都として定めてきた古都。

日本で言えば、奈良みたいな位置づけかな。

 

元々西ゴート王国の宮廷は南フランスにあったんだけど、フランク族というこれまたゲルマン人の一派に敗れて、本格的に拠点をイベリア半島に移すことにした。

その後、6世紀、西ゴート王国はレオビヒルド王のもと、イベリア半島を統一することになる。

梓

 

カトリックへの改宗

さて、ゲルマン人である西ゴート王国内では、当初、カトリックは信仰されていなかった。

というよりも、対立の対象だったんだ。

 

イベリア半島を初めて統一したレオビヒルド王の息子・ヘルメネギルドがカトリックに改宗した際、国内に受け入れられず、結果、彼は反乱を起こしている。

梓

 

〔レオビヒルド王は〕アリウス派(※)とカトリックの相互理解を試みたが、息子ヘルメネギルドの反乱により失敗に終わる。

ヘルメネギルドはアリウス派の進行を棄て、父に反旗をひるがえしたが、最後は反乱者たちの手で捕らえられ、585年にタラゴナで処刑された。

 

〔※アリウス派:キリスト教の一派。カトリックからは異端と見なされた。〕

マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ、青砥直子訳(2016)

『ヴィジュアル版 スペイン王家の歴史』(原書房)

国内でも、争いがあったわけマボねえ。
ちなみに、反乱を起こしたこのヘルメネギルドは聖人と認定されている
梓

 

フランシスコ・エレーラ(子)『聖ヘルメネギルドの勝利』

(プラド美術館、マドリード)

 

その後、6世紀末、レカレド1世自らがカトリックに改宗するようになると、王国内では王権とカトリック教会が結び付くようになった。

これはヨーロッパにとって、非常に重要なことだったんだ。

梓

ディオスコロ・プエブラ『レカルド1世』

(プラド美術館、マドリード)

 

西ゴート王国の滅亡、そして……

カトリックへの改宗が、どうしてそんなに大事なことだったんですか、はて。
それはこの後、西ゴート王国が、イスラーム勢力が侵入することによって滅亡するからだ。

711年、ジブラルタルに上陸したイスラーム軍は西ゴート王国を滅ぼし、その後イベリア半島においてカトリックはイスラームの支配を受けるようになる。

梓
なんと~!

ゲルマン人の支配が大変ねえと思っていたら、今度はイスラームに征服されるマボか!

カトリック教国である西ゴート王国が支配していた地が、異教徒であるイスラームに支配されるようになった。

だからこそ、のちにカトリック勢力はイベリア半島の回復を目指すようになる。

これが西ゴート王国内でのカトリックの広まりという背景は非常に重要だった理由なんだ。

さて、次回の記事ではイベリア半島に征服したイスラーム勢力がその後どのような動きをするかを見ていこう。

梓

まとめ

  • 紀元前はフェニキア人の国家・カルタゴがローマと大勝負! カルタゴが敗北した後、イベリア半島はローマが支配するようになった。
  • 異民族の侵入でローマ帝国が衰退すると、西ゴート王国がイベリア半島を統一。
  • 西ゴート王国内では当初、カトリックは支持されていなかったが、やがて国王自らがカトリックに改宗し、半島内にも広がっていく。

 

この記事の続きはこちらをチェックまぼ!

 

関連記事

 


 

「イベリア半島のスペインの歴史」のシリーズをまとめてます。

みんな、チェックしてくれ~。

 

  1. カルタゴ→ローマ帝国→西ゴート王国への変遷

  2. イベリア半島へのイスラーム勢力の侵入

  3. レコンキスタとは╿アストゥリアス王国→レオン王国→カスティーリャ王国

  4. スペイン王国の誕生とレコンキスタの完成

  5. ハプスブルク家「太陽の沈まぬ国」の“黄金の時代“

  6. スペイン継承戦争╿ハプスブルクからブルボンへ

 


 

参考資料

  • マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ、青砥直子訳(2016)『ヴィジュアル版 スペイン王家の歴史』(原書房)

 

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