【スペイン/歴史/簡単に】④ スペイン王国の誕生とレコンキスタの完成

こんにちは、はてはてマンボウです。

今回は、イベリア半島のスペインの歴史について見ています。

 


 

 


 

今回は、レコンキスタの後半戦。

 

イスラーム勢力との争いの末、スペイン王国がいかにして誕生したかを見ていこう。

梓

 

ナバス・デ・トロサの戦い」とイスラーム勢力の後退

北アフリカのイスラーム勢力の反撃

カスティーリャ=レオン王国が建国された頃、

イベリア半島におけるイスラーム勢力の親玉だった後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、

イスラーム勢力は「タイファ」と呼ばれる小王国へ分裂する状況になった。

 

一方、国王アルフォンソ6世は、イベリア半島の古都・トレドを回復するなど、カスティーリャ=レオン王国は乗りに乗っていた。

梓
イスラームは分裂していて、このままではキリスト教勢力にやられる一方マボよ~。
なーんて余裕をかましていいかと思いきや、

北アフリカのイスラーム勢力「ムラービト朝」に攻められ、キリスト教勢力は散々な目に遭っていたんだ。

梓

〔カスティーリャ=レオン王国が拡大の一途を図る中〕

状況ががらりと変わったのは1085年である。

その年、アルフォンソ6世はトレドのタイファを征服した。

 

そこで、イスラームの君主たちが北アフリカのアルモラビデ朝〔ムラービト朝のこと〕に支援を求めたため、カスティーリャ=レオン王国は何度も手痛い反撃にあう。

これにより内紛が引き起こされ、王国はすっかり弱体化した。

 

マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ、青砥直子訳(2016)

『ヴィジュアル版 スペイン王家の歴史』(原書房)

 

なんと!

レコンキスタも一筋縄ではいかなかったワケまぼねえ。

 

ナバス・デ・トロサの戦い

ムラービト朝がムワッヒド朝に取って代わった後も、

この北アフリカのイスラーム勢力はイベリア半島のキリスト教勢力にとって、脅威であり続けた

 

そんなムワッヒド朝と、イベリア半島内のキリスト教勢力の連合軍がぶつかったのが、

1212年の「ナバス・デ・トロサの戦い」だ。

梓

 

フランシスコ・デ・パウラ・ヴァン・ヘイレン『ナバス・デ・トロサの戦い』

(スペイン上院議事堂、マドリード)

 

結果はキリスト教連合軍の勝利

以後、ムワッヒド朝は侵攻が困難になり、
イベリア半島のイスラーム勢力の衰退は決定的となった。

カスティーリャ王国はタイファをどんどん征服し、
ナスル朝グラナダ王国を除いてタイファ諸国はすべて併合されてしまうんだ。

梓

 

3つの王国

ナバラ王国

カスティーリャ王国以外にイベリア半島に存在した王国のうち、代表的な3つの王国をこれから紹介していくよ。

まずは、ナバラ王国

 

ナバラ王国は、イベリア半島北東部、いまのバスク地方にあった王国で、

最盛期の10世紀のサンチョ大王のときにはイベリア半島の多くのキリスト教国家を支配下に収めたんだ。

梓

 

ナバラ王国の国章

 

13世紀の「ナバス・デ・トロサの戦い」では、キリスト教連合軍の一角として戦い、

ナバラ王サンチョ7世は、ムワッヒド朝の王の陣幕に突撃するなど活躍したんだ。

ナバラ王国の紋章はこの戦いを契機に、現在の盾柄の図柄になり、いまもスペイン王国の紋章の一部に取り入れられているよ。

梓

スペインの国章

右下に、ナバラ王国の盾の紋章が見られる。

 

なかなか存在感があったみたいマボねえ。

その後も活躍したマボか?

残念ながら、10世紀のサンチョ大王のときが最盛期。

王国はその後分裂し、カスティーリャ王国やアラゴン王国などとして独立してしまう。

カスティーリャ王国がレオン王国を併合して、
カスティーリャ=レオン王国となっていったのは、前回の記事でも見てきたね。

 

その後、スペイン王国が成立すると、イベリア半島側の領土は王国に吸収され、ピレネー山脈の北の僅かな領土が細々と残っていくことになる。

梓

 

ポルトガル王国

ポルトガル王国の国章

 

ポルトガル王国の領土はもともと、カスティーリャ=レオン王国の支配下にあった

 

1139年、ムラービト朝との戦いである「オーリッケの戦い」で活躍したアフォンソ・エンリケスは、アフォンソ1世と称して独立を果たすんだ。

梓
その後、ポルトガルは大航海時代もスペイン王国と一緒に活躍し、いまも国として残っていますよね。

このレコンキスタのとき、イスラーム勢力も含めてスペイン王国に吸収されなかった唯一の国、と言ってもいいかもしれませんねえ。

 

アラゴン・カタルーニャ連合王国

イベリア半島の北西から中央部へと拡大していったカスティーリャ王国に対し、

東部から拡大を続けたのがアラゴン=カタルーニャ連合王国だ

梓

アラゴン=カタルーニャ連合王国の国章

現在のカタルーニャ州にも継承されている。

 

Wikipedia「アラゴン王国」より

(2021年9月11日閲覧)

アラゴンはたしか、ナバラ王国から独立した王国の1つだったわねえ。

 

東の方からもキリスト教勢力が拡大してきたマボね。

このアラゴン=カタルーニャ連合王国は、イベリア半島南東部沿岸に位置するバレンシア王国を征服した。

このバルセロナを拠点に地中海へ進出すると、イタリア南部のシチリアやナポリまで征服していく

梓

Wikipedia「アラゴン連合王国」より

(2021年9月11日閲覧)

 

イタリアのシチリアとかナポリって、ずっとイタリアの人たちが支配していたんじゃなかったのねえ!
シチリアを支配していたフランス王族のアンジュー家に対して市民が暴動を起こした

「シチリアの晩鐘事件」

は世界史の授業でも出てくるほど有名だね。

梓

フランチェスコ・アイエツ『シチリアの晩祷』

(ローマ近代美術館、ローマ)

 

この暴動の隙に、シチリアはアラゴンの支配下に置かれるようになる。

その後、何世紀もの間、シチリアやナポリはスペインの支配下にあったんだよ

梓

 

同君連合によるスペイン王国の誕生とレコンキスタの完成

カトリック両王の連合王国

1469年、カスティーリャ王国のイサベルとアラゴン=カタルーニャ連合王国のフェルナンドが結婚すると、

この同君連合によりスペイン王国が成立することになった

ローマ教皇アレクサンデル6世から、2人は「カトリック両王」と呼ばれるようになる。

梓

『カスティーリャ女王イサベル1世』

(プラド美術館、マドリード)

ミケル・シトウ『アラゴン王 フェルナンド2世』

(美術史美術家、ウィーン)

 

この時点でイベリア半島に乗っている王国は、次の5つだった。
梓
  • カスティーリャ王国
  • アラゴン=カタルーニャ連合王国

⇒ 2国により、スペイン王国の誕生へ

  • ナバラ王国

⇒ 16世紀になると、イベリア半島の領土はスペイン王国に取り込まれる

  • ポルトガル王国

⇒ 唯一の独立国

  • グラナダ王国

⇒ イベリア半島最後のイスラーム勢力

 

グラナダの陥落……ついにレコンキスタの完成

貢納によって命脈を保っていたグラナダ王国だったけれど、1482年、内乱が発生してしまう。

この隙に乗じて、キリスト教勢力のグラナダへの侵攻が始まった。

1492年1月2日、グラナダのアルハンブラ宮殿は陥落。
ナスル朝は滅亡し、レコンキスタが完成するんだ

梓

 

フランシスコ・プラディーリャ・オルティス『グラナダの降伏』

(セナド王宮、マドリード)

 

レコンキスタと一言で言っても、スペイン王国の誕生までは、たくさんの勢力が入り混じっていたのねえ。
さて、次回はスペイン・ハプスブルク家の栄華

 

太陽の沈まぬ国」の黄金の時代を見ていこう。

梓

 

まとめ

  • ナバス・デ・トロサの戦いを機に、流れはキリスト教勢力へ傾いた。
  • イベリア半島には、ナバラ王国、ポルトガル王国などのキリスト教勢力も
  • カスティーリャ王国と、アラゴン=カタルーニャ連合王国による同君連合によりスペイン王国が誕生すると、グラナダを陥落させレコンキスタを完成させた。

 

この記事の続きはこちらをチェックまぼ!

 

関連記事

 


 

「イベリア半島のスペインの歴史」のシリーズをまとめてます。

みんな、チェックしてくれ~。

 

  1. カルタゴ→ローマ帝国→西ゴート王国への変遷

  2. イベリア半島へのイスラーム勢力の侵入

  3. レコンキスタとは╿アストゥリアス王国→レオン王国→カスティーリャ王国

  4. スペイン王国の誕生とレコンキスタの完成

  5. ハプスブルク家「太陽の沈まぬ国」の“黄金の時代“

  6. スペイン継承戦争╿ハプスブルクからブルボンへ

 


 

参考資料

  • マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ、青砥直子訳(2016)『ヴィジュアル版 スペイン王家の歴史』(原書房)
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