今回は新田次郎の歴史小説『武田信玄』の最終巻の紹介です。
前回までの記事は、こちらをチェックしてくれ~。
いよいよ西上作戦に動いていく信玄、その結末は……。
台頭する信長╿叡山自滅
世に云う「比叡山焼き討ち」だ。
身延山 久遠寺(山梨)
しかし、「久遠寺の僧侶たちはこれに反対し、断食でもって抗議している」という事実を、家臣・穴山信君から信玄は報告される。
信玄は、信君の言葉をじっと聞いていたがたった一言
「世の力は仏法には及ばない。信長はその仏法に勝った……」
と冷たい声で洩らした。
信玄は誰にもどうすることもできなかった叡山を滅ぼした信長の力量と、
久遠寺一つを移転させることのできない自分の力とを比較して見たのであろう。
新田次郎(2005)
『武田信玄 山の巻』
「叡山自滅」(文春文庫)
江馬の栃餅
しかし、病が身体をむしばみ、思うように事が進まない。
家臣たちはなんとか信玄の体調を良くしようと奔走する。
当時はあくの抜けていない栃餅が多くて、あんまりおいしくないという認識だったらしい。
しかし、おいしい栃餅が名将・山県昌景(やまがた まさかげ)のもとへもたらされた。
昌景はこれを信玄に食べさせてはと、軍医・御宿監物(みしゅく けんもつ)に勧める。
「なに栃餅、あのあくの強い栃餅をお館様にさし上げろというのですか。
とんでもないこと、
ただでさえ通じがよくないところへ持って来て、栃餅など言語道断、とんでもないことです」
御宿監物は取り合わなかった。
監物は彼が食べたことのある甲斐の栃餅のことを云っているのであって、
奥飛騨から届けられた栃餅がいかにうまいかを昌景が説明しても信じなかった。
ついには
「三郎兵衛殿(昌景のこと)の舌にはなんでも旨く感ずるのでしょう。
そういう人も百人に一人ぐらいはいるものです」
新田次郎(2005)
『武田信玄 山の巻』
「江馬の栃餅」(文春文庫)
信玄は食欲を取り戻し、病の床から抜け出すことができた。
天下の名将・山県昌景の名誉挽回というコミカルなシーンを経て、いよいよ物語は西上作戦へと動いていく。
西上の望み捨てず、そして……
新田次郎(2005)
『武田信玄 山の巻』(文春文庫)
その道中には三河の徳川家康がいる。これを倒さなければ京への道は開けない。
若き徳川家康と武田信玄は「三方ヶ原の戦い」で激突する。
それで、どうなったんですか?
信玄は本当ならそのまま西へ向かうことができた。
しかし、病……。
それでも死期を悟った信玄は、実子・武田勝頼と宿老・山県昌景を呼びだした。
「勝頼、近う寄れ、昌景も側に寄って余が云うことをよく聞け。
或いは余は京都に武田の旗を立てるのを見ることなくして死ぬかもしれない。
そのように思えてならぬ。
もし余が西上の途中で死んだとしても西上の軍を止めてはならぬ。
軍を退くときは、退かねばならぬ理由ができたときだけである。
今のところ、余の死は軍を退く理由にはならぬ。
余が死んだら三年間死を秘めて置け。
その間に勝頼は武田の総帥としての考えを充分纏めて置くことだ。
他に何も云うことはない」
新田次郎(2005)
『武田信玄 山の巻』「巨星堕つ」
(文春文庫)
その後、時流は武田に傾かず、織田信長、そして徳川家康の天下へと移っていく。
そんな稀代の戦国大名の死で物語は幕を下ろすんだ。
まとめ
- 比叡山焼き討ちのように、信長は実力をつけていく。
- 信玄は西上作戦を開始し、三方ヶ原の戦いで家康を打ち倒すが、病の末、京の地に武田の旗を立てられないまま、没する。
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