【九州三国志】① 大友宗麟/龍造寺隆信/島津義久・義弘│覇権争いの変遷の概要

こんにちは、はてはてマンボウです。

今回は……。

三国志……なのに、中国じゃなくて九州。

はて。

戦国時代の九州で起きた、大友・龍造寺・島津の戦国大名の三つ巴の戦いのことを、俗に、「九州三国志」ともいうんだ。

戦国ファンには「大河にしてほしい!」なんて声も見かけるテーマなんだよ。

梓
さて、概要を説明しようか。

とりあえず、「九州三国志について、転換点となった主要な合戦を3つ挙げてください」とでも、AIに聞いてみると……。

梓

 

うわあ、あっという間に出てきたマボ!
すごい時代ねえ。
これで、この教養回遊記もお払い箱マボねえ……みなさん、さよならマボ……。
……なんか違う。
梓
はて?
というか、全然違う。

いや、ところどころそれっぽい単語は出てくるけど、どれも嘘っぱちだ。

梓
にょほほ~やっぱりマンボウちゃんたちが必要なわけマボねえ~。

それじゃあ、九州三国志について、見ていきましょう!

50~60年代:大友氏の時代

九州三国志は、特に16世紀後半の九州地方での三つの勢力による争いを指すと考えていい。

ただし、本家の三国志も、魏・呉・蜀の三国が最初から拮抗していたわけでもないし、三国がほぼ同時に成立したわけでもない。

九州三国志においても、その勢力には移り変わりがあるんだ。

梓

 

大友宗麟の台頭

16世紀半ばに九州で存在感を見せていたのが大友宗麟(そうりん)だ。
梓

『大友宗麟像』

(大徳寺瑞峯院、京都)

大友宗麟は九州中北部に勢力を伸ばし、
菊池氏を滅亡させて肥後国を得るとともに、肥前国の守護にも任じられた。

また、足利将軍家には献金を続けていて、幕府の九州の出先機関の長である九州探題にも任ぜられるなど、権威を得ることができた。

梓
そりゃあすごい!
九州北部は、中国地方との地理的な関係から、大内氏や毛利氏といった中国地方の覇者がしばしば影響力を発揮していた。

宗麟は彼らとの戦いに明け暮れていくわけなんだけど、大友氏の北部九州での覇権も長くは続かなかった。

梓

70年代:大友氏、龍造寺と島津にボコボコにされる

今山の戦い:龍造寺の台頭

さて、大友氏に最初の打撃を与える九州の武将が、龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)だ。

龍造寺氏は、肥前を治めていた少弐氏に仕えていたんだけど、下克上で戦国大名となり、隆信は佐賀を本拠として肥前を統一していた。

龍造寺隆信は「肥前の熊」の異名も持つ

梓

 

『龍造寺隆信像』

(佐賀県立博物館、佐賀)

あ、九州三国志の三大勢力、その2マボね。

なんとなく熊さんっぽさが。

1570年、大友宗麟は肥前で勢力を拡大する龍造寺隆信の討伐に向かう。

普通なら勝てたであろう大友側は、総攻撃の前夜に酒宴を開いていると、龍造寺氏の鍋島直茂に奇襲され、敗戦。
総大将で、宗麟の弟だった大友親貞も討ち取られてしまう。

この戦い自体は局地戦にすぎないけれど、龍造寺氏を滅ぼすことができなかった結果、その後の隆信の拡大を許してしまう。

勢いに乗った隆信は、肥後、筑前、筑後、豊前といった大友領である九州北部に領土を伸ばしていき、「五州二島の太守の称号を名乗るまでになる。

梓

耳川の戦い:島津氏の勢力拡大へ

大友氏にとって大きな痛手となったのが、1578年の耳川の戦いでの敗戦だ。

島津氏に敗れた大友氏は、この戦いで多くの有力家臣や兵力を失うことになる。

梓

『島津義弘像』

(尚古集成館、鹿児島)

あ、九州三国志の三大勢力、最後の一角。
この戦に勝った島津氏は、大友氏の後ろ盾を失った肥後の切り崩しを進めることになる。

島津の勢力拡大に繋がるわけだ。

一方、敗戦を離反も相次いだ大友家は一気に衰退する。

梓

80年代前半:龍造寺、突然の死と島津の天下

沖田畷(なわて)の戦い

九州三国志における三強の一角から最初に脱落した大友家。

すると九州は、島津家と龍造寺家の実質二強時代へ。

両者は、1584年、島原半島にて、沖田畷の戦いを繰り広げることとなる。

梓
「畷」と書いて「なわて」ふむふむ……。

って、どういう意味マボか、はて。

畷は田んぼなんかの「あぜ道」のこと。

湿地の中にある、ちょっとした小道だと思えばいいかな。

諸事情によりわずかな軍しか送り込めなかった島津氏。
……だったんだけど、沼地にある「畷」の一本道に龍造寺軍を誘い込むと、弓と鉄砲の一斉攻撃を仕掛ける。

混乱して後退する部隊と、後ろから前進する部隊が一本道で大混乱したところで、龍造寺軍は壊滅。

そしてなんと、龍造寺隆信自身が討ち取られてしまうんだ。

梓
ぐえ~ひ、肥前の熊さんが~はて~
総大将を失った龍造寺氏の拡大はこれにて終わり。
龍造寺傘下の勢力も一気に島津氏へ服属し、島津の勢力は九州北部まで拡大した。
九州三国志の時代は、島津氏の制覇で幕を閉じることになる……ように思えたが。
梓
はて?

80年代後半:豊臣氏の侵攻

戸次川(へつぎがわ)の戦い:豊臣勢の惨敗

既に三強の一角から崩れ落ち、完全に衰退していた大友氏。

彼らが活路を見出したのが、本州の中央勢力である織田・豊臣勢だった。

大友宗麟は秀吉に大坂で面会し、島津氏の侵攻への救援を求めた。

そこで秀吉は、傘下の四国勢を九州へ派遣する。
軍監は讃岐の仙石秀久
四国制覇を目前に豊臣勢に敗北し、元の土佐へと押し戻されていた長宗我部元親・信親の親子もこれに加わっていた。

梓

『仙谷秀久像』

(個人蔵)

『長宗我部元親像』

(秦神社、高知)

こりゃあ、まずいマボよ~~

島津氏といえども、さすがにやられてしまうのでは……。

豊後の国にて、戸次川の戦いを迎えた島津氏。

ところがなんと、戸次川を渡ってきた豊臣勢を急襲することで、島津氏はこれに勝利。

仙谷秀久は敗走。

元親の嫡子・信親をはじめ、有力武将が失われた。

しかし、島津氏はその後、大友宗麟の守る大友氏の本拠・丹生島(にうじま)城(臼杵城)を落とせなかった。

そしてその後の豊臣勢の攻勢を受け、結果、島津氏は降伏。

豊臣氏の九州平定により、九州の戦国時代は終わりへ向かう。

梓
九州三国志のどの勢力にも輝きとはかなさがあるわけマボねえ。

まとめ

  • 九州での大友・龍造寺・島津による三つ巴をもって、俗に「九州三国志」と言われる。
  • 大友氏は、島津氏との耳側の戦いでの敗戦を機に、衰退へ
  • 龍造寺・島津の時代となるものの、沖田畷の戦いでの隆信本人の死が響き、龍造寺氏は衰退
  • 島津が九州の覇権を握るかに見えたが、秀吉による九州平定により、九州の戦国時代は終わりに向かう。

 

参考資料

  • 佐藤香澄編(2008)『戦国九州三国志―島津・大友・龍造寺の戦い』 学研プラス.

 

 

 

参考記事

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  1. 大友宗麟/龍造寺隆信/島津義久・義弘│覇権争いの変遷の概要
  2. 大友宗麟/義鎮:豊後(大分)│ザビエルと交友したキリシタン大名
  3. 立花道雪/高橋紹運/立花宗茂│大友家を支えた武将たち
  4. 龍造寺隆信│「五州二島の太守」から「沖田畷の戦い」の壮絶な最期へ
  5. 島津家│九州制覇に手をかけた「戦闘民族」
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