今回は、戦国時代の九州地方での三つの勢力による争い、「九州三国志」の記事の続きです。
【九州三国志】① 大友宗麟/龍造寺隆信/島津義久・義弘│覇権争いの変遷の概要
前回までの記事はこちらをチェックしてくれ~
大友義鎮/大友宗麟/ドン・フランシスコ
『大友宗麟像』
(大徳寺瑞峯院、京都)
同一人物なんでしょうか、はて。
1540年、当時の室町幕府将軍・足利義晴から一字拝領して「義鎮」と名乗ったんだ。
その後、1562年に出家して「休庵宗麟」と号したのが、大友宗麟と通称されている。
さらに1578年、宣教師から洗礼を受け、洗礼名「ドン・フランシスコ」と名乗ったキリシタン大名でもあるんだ。
署名に「府蘭」も用いたそうだよ。
ルイス・フロイスの書簡では「豊後の王」とも呼ばれた。
中国地方の大名との戦い/大内氏・毛利氏
大友氏の家紋「花杏葉(はなぎょうよう)」
しかし、戦国時代を迎えると、中国地方の強力な大名である大内義隆(よしたか)の侵攻を受けるようになる。
九州北部は、大陸との貿易港としての要衝だったから、海を越えた中国地方の大名にとっても魅力的だったんだ。
大友氏は少弐氏と手を組んで、大内氏の侵攻に何とか対抗していく。
「大内義隆像」
(龍福寺、山口)
おかげで宗麟は、北部九州の大内配下の勢力も服属させることに成功。
今度は逆に、宗麟の方が、実弟に大内家の家督を継がせるなど、中国地方の山口県周辺(周防・長門)に影響力を及ぼすまでになるんだ。
肥後も手中に収めた上で、少弐氏にも勝利して肥前国の守護にも任じられる。
「毛利元就画像」
(毛利博物館蔵、防府)
耳川の戦いで島津氏に敗北すると、その後はどんどん島津氏に押し込まれることになるのは、前回の記事で見たとおりだね。
キリシタン大名として
『聖フランシスコ・ザビエル』
(神戸市立博物館、神戸)
ザビエルはもともと、大内義隆に宣教を許可してもらって、山口で布教活動をしていた。
その後、大友宗麟に迎えられ、豊後内で布教を進めていくことになるんだ。
アンソニー・ヴァン・ダイク『日本の王に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル』
(ヴァイセンシュタイン城、ポンマースフェルデン)
※ザビエルの日本での活動を想像で描いた絵
「毛利氏への硝石(火薬の原料)の売買禁止」
を依頼している。
とはいえ、これは、家臣団の中で対立を生み出すきっかけにもなってしまった面もあるんだ。
- 日向(宮崎県)北部を占領し、ここにキリスト教理想国家を建設することを夢見た宗麟は、1578年7月、キリスト教信者となる。
- しかし、同年11月、耳川の戦いで島津氏に大敗。キリスト教理想国家どころか領国自体が衰退の一途へ。
- 有力家臣が謀反を起こし、龍造寺隆信からも攻め込まれ、肥後からさらに九州北部へ島津氏が進出してくる中、宿老・立花道雪(たちばな・どうせつ)は、
「領国内でキリスト教信者が増加し、寺社を償却し、仏像を敬わなくなったから天罰が下り、領国が衰退し始めたのだ」
と、暗に信者となった宗麟を批判。
- 宗麟のキリスト教厚遇策に対し、長年多くの家臣らが不満を積もらせていたのが、宗麟が信者となった上で耳川の戦いに敗戦したことから、反乱という形で表面化させてしまった。
佐藤香澄編(2008)『戦国九州三国志―島津・大友・龍造寺の戦い』 学研プラス.
まとめ
- 大友義鎮は、出家して宗麟と号したのち、さらに洗礼を受けて「ドン・フランシスコ」を名乗る
- 大内氏・毛利氏と、中国地方の巨大勢力と大友氏は対決
- キリスト教を保護し、貿易も通じて力をつけるも、耳川の戦いを機に衰退へ
参考資料
- 佐藤香澄編(2008)『戦国九州三国志―島津・大友・龍造寺の戦い』 学研プラス.
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