今回は、東ローマ帝国、すなわちビザンツ帝国の歴史について見ています。
前回までの記事はこちらをチェックしてくれ~
ビザンツ帝国と十字軍の関係について見ていこう。
目次
アレクシオス1世、セルジューク朝トルコ、そして第1回十字軍
アレクシオス1世とコムネノス朝
新たに「コムネノス朝」が興る。
『アレクシオス1世』
(バチカン図書館、バチカン)
アナトリアとルーム・セルジューク朝
バシレイオス2世が崩御した少し後の1038年に建国されたトルコ人の政権であるセルジューク朝、
そしてその地方政権から1077年に独立したルーム・セルジューク朝は、
ビザンツ帝国を圧迫してきた。
ルーム・セルジューク朝の国旗「双頭の鷲」
しかし、かっちょぶーな国旗マボよ。
ここは、長らくビザンツ帝国の都市だったんだ。
ちなみに、「ルーム・セルジューク朝」の「ルーム」は「ローマ」を意味している。
ビザンツ帝国領だったアナトリアの地を奪い、ここを拠点としたことから、ルーム・セルジューク朝と呼ばれるようになったんだ。
アナトリアの大半は紀元前二世紀以来、ローマ帝国、その東西分裂後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の一部である。
11世紀のはじめ、その人口の多くはギリシャ系やアルメニア系のキリスト教徒で、皇帝と教会の支配のもとにあった。
ただし、アナトリアの南東部は、七世紀のアラブの大征服依頼、イスラム系諸王朝のもとに置かれていた。
11世紀当時、その一帯は、セルジューク朝が支配している。
アルメニア系、クルド系、アラブ系の住民から成るが、セルジューク朝の支配とともにトルコ系遊牧民の展開も始まっていた。
林佳世子(2016).
興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和 講談社学術文庫.
対イスラームへの応援としての「十字軍」
「クレルモン教会会議でのウルバヌス2世」
そこで、アレクシオス1世が助けを依頼したことにより、ローマ教皇ウルバヌス2世のクレルモン教会会議での呼びかけによって、1096年、第1回十字軍がエルサレム遠征の軍を起こすことになる。
「エルサレム攻囲戦」
(フランス国立図書館、パリ)
じゃあ、キリスト教徒の騎士たちの応援のおかげで、アレクシオス1世も助かったんじゃないですか。
だけど、ビザンツ帝国自体が、十字軍の通り道になってしまったことで、十字軍による略奪に遭うことにもなってしまったんだ。
ニカイアこそビザンツ帝国の手元に返ってきたものの、ニカイア征服の際、十字軍は投石機でセルジューク兵の首をばらまいて威嚇するなどしている。
現代の価値観で当時の人たちの常識を測るべきではないかもしれないけど、とはいえ、まあ滅茶苦茶な連中の集まりだったんだろうとは思う
ムスリムの首を投石機でニカイア市内に投げ込む十字軍兵士
ちなみに、アンティオキア征服の際にも、やはり虐殺が起きていたらしい。
「アンティオキアの陥落と虐殺」
ヨハネス2世の栄光、そして没落へ……
「ヨハネス2世」
(ハギア・ソフィア大聖堂、イスタンブール)
1137年にはアンティオキア公国を屈服させることに成功した。
まとめ
- アレクシオス1世はアナトリアを巡り、セルジューク朝と対決。西側へのその応援要請が十字軍へとつながる。
- アナトリアのニカイアの回復にはつながるが、十字軍はやりたい放題。
- アレクシオス1世の息子、ヨハネス2世は一時帝国を隆盛させるが、彼の死後、ビザンツ帝国は斜陽へと向かっていく。
参考資料
- 林佳世子(2016).興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和 講談社学術文庫.
参考記事
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