
今回は、東ローマ帝国、すなわちビザンツ帝国の歴史について見ています。


ビザンツ③│ユスティニアヌス帝│ローマ法大全/妻・テオドラ/ハギア・ソフィア
前回までの記事はこちらをチェックしてくれ~
ヘラクレイオス1世について見ていこう。
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目次
ヘラクレイオス1世:ササン朝、イスラームとの戦い
ササン朝との攻防、そしてニネヴェの戦い
610年、内乱の末、ヘラクレイオスが皇帝に即位することでヘラクレイオス王朝へと代替わりすることになる。
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ヘラクレイオス1世 ※ヘラクレイオス1世のソリドゥス金貨
Heraclius – Wikipedia(last visited Oct. 15, 2022)

しかし、それはすなわち、外敵に対する力も失われているわけだから、帝国の危機でもある。
というわけで、隣国・ペルシアが侵入してくるんだ。
ササン朝の王・ホスロー2世との戦争の始まりだ。
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ホスロー2世
Wikipedia「ホスロー2世」(2022年11月13日確認)

現在でもトルコの隣国だ。
ビザンツ帝国の都・コンスタンティノープルは、現在のイスタンブールだから、ビザンツ帝国のすぐ東側の国だったというわけだね。
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そのペルシャに攻められて、王朝が替わって早々、ピンチなヘラクレイオスさんなわけマボね。
シリアやエジプトを占領され、コンスタンティノープルも、あわや占領されそうになったんだ。
しかし、ヘラクレイオス1世はどうにか盛り返し、627年にニネヴェの戦いでササン朝に勝利すると、
翌628年には逆にササン朝の首都クテシフォンへ侵攻して勝利する。
この勝利は単なる戦術的成功ではなく、数十年にわたる両大国の抗争に決着をつけるものだった。
敗れたササン朝は内乱に陥り、皇帝ホスロー2世は暗殺され、そのペルシャ帝国は急速に弱体化することになる。
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『智天使ケルビムと、ホスロー2世の降伏を受け入れるヘラクレイオス』
(ルーヴル美術館、パリ)

しかし、ササン朝に勝てて良かったマボねえ。
ヘラクレイオス1世も、ほっとしたんじゃないマボか。
しかし、話はこれで終わらない。
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「シリアよさらば、なんと素晴らしい国を敵に渡すことか」
しかし、ヘラクレイオスの栄光は、ほんのつかの間のことであった。
彼がバルカン半島に目を転じて行動を起こすよりも早く、アラビア半島から新たな運動の足音が忍び寄りつつあったのである。
新しい宗教であるイスラムの創始者ムハンマドが、メッカからメディナに拠点を移した聖遷(ヒジュラ)の年(六二三年)は、
ヘラクレイオスがササン朝に対して本格的に活動を開始したのと同年にあたる。
中谷功治(2020).
ビザンツ帝国-千年の興亡と皇帝たち 中公新書.

632年のムハンマドの死後もイスラーム共同体は統一と拡張を進め、外征によって急速に勢力を広げていくんだ。
この時期、ビザンツ帝国とササン朝はいずれも長期戦争で消耗しており、国力の低下が著しかったため、イスラーム軍の進撃を止めることができなかった。
こうした国際関係の隙を突き、イスラームは急速な台頭を見せていく。
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しかし、両国の長期戦による疲弊は深刻で、イスラーム勢力の急速な拡大を許す土壌を生むことになった。
627、628年の華々しい勝利もつかの間、
636年のヤルムーク河畔の戦いで、ビザンツ帝国はイスラームに叩きのめされることになる。
これは単なる戦闘の敗北ではなく、帝国領土の大幅な失陥を招き、その後の政治・宗教・社会構造にも重大な影響をもたらすことになるんだ。
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ローマ帝国はアラビア半島の遊牧民や商人たちと長い関係を有していた。
それだけにかえって、イスラム教徒による新たな同行に機敏に反応できなかったのかもしれない。
気づいたときには、皇帝自らが大軍を率いて出陣する事態を招いていた。
両軍の雌雄はたった一度の会戦でケリがついた。
六三六年、パレスチナのヤルムーク河畔の戦いである。
兵力では圧倒的に優位にあったにもかかわらず、ビザンツ軍は大敗した。
中谷功治(2020).
ビザンツ帝国-千年の興亡と皇帝たち 中公新書.
642年にはニハーヴァンドの戦いで、イスラームに敗れたササン朝はなんと滅亡することになるんだ。
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ビザンツ帝国があんなに手を焼いたササン朝があっさりと!
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シリアよさらば、なんと素晴らしい国を敵に渡すことか
島崎晋(2010).
名言でたどる世界の歴史 PHP研究所.

まもなくシリア、パレスチナはイスラム教徒の手に落ち、
ヘラクレイオスが亡くなる六四一年には、同じくエジプトの大部分も帝国領ではなくなっていた。
この後、エジプトはキリスト教徒の支配の及ばぬ地域となっていく。
結局のところ、アジア側でビザンツ帝国に残されたのは実質小アジア半島だけであり、
ヨーロッパ側のバルカン半島は帝国領と呼んでよいか怪しい状態になっていった。
中谷功治(2020).
ビザンツ帝国-千年の興亡と皇帝たち 中公新書.
帝国はシリア・パレスチナを失い、さらに数年のうちにエジプトも奪われた。
この戦いは、ローマ帝国以来、地中海東部を支配してきたローマの支配が終焉を迎える象徴的出来事となったんだ。
そして、帝国の勢力圏が大きく縮小する決定的転換点となった。
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ビザンツ帝国がイスラームの拡大を留めていたとしたら、もしかすると、エジプトは現代において、キリスト教国になっていたかもしれない。
まあ、あくまで可能性の話だけどね……。
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ギリシャ人のローマ帝国へ
これは、今回彼を取り上げた理由の1つでもあるんだけど……。
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また彼の治世をもって、国家の公用語は事実上ギリシア語になったと言える。
今後、ビザンツ皇帝はギリシア語で「バシレウス」と呼ばれる。
バシレウスとは元来はギリシア語で王を意味する用語であるが、
古くからローマ皇帝をも指していた。
皇帝たちは、ペルシアやヨーロッパの君主と区別して今後は
「ローマ人の皇帝(バシレウス・トン・ローマイオン)」と称するようになる。
中谷功治(2020).
ビザンツ帝国-千年の興亡と皇帝たち 中公新書.
といったものがあったよね。
ところが、629年にササン朝に勝利して凱旋したヘラクレイオス1世は、
「キリスト信者のバシレウス」
とだけ名乗ったんだ。
この変化は、帝国のアイデンティティが大きく転換したことを示していると言えるね。
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ヘラクレイオス1世もまた、いろんなエピソードに富んだ人でしたねえ、はってはて♪
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まとめ
- ユスティニアヌス1世依頼、衰亡を続けていたビザンツ帝国の内乱を通じて、ヘラクレイオス1世が即位
- ササン朝のホスロー2世には一時追い込まれるも、領土を取り返す
- しかし、イスラームに敗れて、やっぱり領土を無くすことに……
- ビザンツ帝国をギリシャ化するのに一役買った皇帝でもある
参考資料
-
島崎晋(2010).名言でたどる世界の歴史 PHP研究所.
- 中谷功治(2020).ビザンツ帝国-千年の興亡と皇帝たち 中公新書.
参考記事

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