今回のシリーズ記事では『孫子の盲点』という本を通して、武田信玄が兵法書『孫子』をどう用いていたかを見ています。
前回までの記事は、こちらをチェックしてくれ~。
今回は各章と信玄の戦がどう関係しているかを見ていくよ。
わかりやすく翻訳してあるからありがたいマボねえ。
目次
作戦篇、九地篇╿『孫子の盲点』で見る信玄の戦
『作戦篇』
戦争というものはまずくてすばやくおこなうことはあっても、
うまくて長引くという例はない。
戦争が長期化して国が良くなったことはない。
勝利のために徹底的に準備をしているから、負ける戦はしない。
『九地篇』
士卒の耳目をうまくくらまして、軍の計画を知らせないようにする
戦闘に踏み切るときには、兵力消耗を最小にしながら、必ず領土を獲得するようにした。
「戦争で戦争を養う」ためである。
戦役が長期化しても戦闘は短期化するようにしている。
領土拡大が信玄の戦争の大原則であったから、攻め手の損耗が多い下策である城攻めもしなければならなかったが、
信長などがしたような大城塞への大規模な城攻めは生涯にわたっておこなわず(小田原城も、結果的には浜松城も大規模包囲はしなかった)、
城を長期に包囲しても、兵力損傷を避けるために戦闘の比率を最小限にするよう心がけた。
海上知明(2015)
『孫子の盲点~信玄はなぜ敗れたか?~』
(ワニ文庫)
緩やかにしか拡大できなかったとも言える。
行軍篇、謀攻篇、虚実篇╿諏訪攻略戦
新田次郎(2005)『武田信玄 風の巻』(文春文庫)を一部加工
さて、必ず勝てるよう用意周到に準備をしてから戦に臨むのが信玄だというのは、ここまで書いたとおりだったね。
行軍篇
戦力を集中して考えはかっていくなら十分な勝利をえられる
一族内で実権を争う諏訪家の内部分断を図って諏訪家当主の諏訪頼重を降伏させると、これを自害させた。
『謀攻篇』
- 敵の連合関係を寸断する
- 戦わずして勝つ
諏訪頼重の遺した、生まれたばかりの乳児・寅王丸を諏訪家の新たな当主だと主張して諏訪家領内の豪族を味方につけ、
内紛を起こしていた諏訪親族を撃退していくんだ。
『虚実篇』
相手を思いのままに動かす
軍形篇、勢篇╿上伊那攻略
新田次郎(2005)『武田信玄 風の巻』(文春文庫)を一部加工
『勢篇』
勢いのままにまかせる人が兵士を戦わせるさまは、勢いをつけて木や石を転がすようである
今回もまた、戦う前から準備万端の信玄は、ほとんど戦わずして勝つことができた。
『軍形篇』
勝利の軍とは勝利を得たも同じ状態にしておいてから戦う:上伊那攻略
始形篇╿塩尻峠の戦い
新田次郎(2005)『武田信玄 風の巻』(文春文庫)を一部加工
信濃を北上中、上田原の戦いで大敗北。
歴代の重臣を次々に失うこととなる。
その一人が、信玄に脅威を覚えていた小笠原長時だった。
小笠原長時の攻撃に対し、信玄は軍を意図的に遅く動かし、相手を油断させた。
『始形篇』
戦争とは相手を偽る技である。
強くても弱くみせ、
勇敢でも臆病にみせ、
近づいても敵には遠くにいるようにみせかけ、
遠くにいても近くにいるようにみせかけ、
利を求めている時には誘い出す
(兵とは詭道なり)
地形篇、軍争篇╿川中島の合戦
新田次郎(2005)『武田信玄 林の巻』(文春文庫)を一部加工
このときは川中島北部で、武田・上杉両軍が犀川を挟んで二百日間睨み合ったことから、
「犀川の戦い」
とも呼ばれている。
『地形篇』
戦力同等の敵が、遠く離れて自ら選定した場所に陣地している時は、戦闘の発動は困難
第3回・川中島の戦いで武田領まで侵入してきた謙信が撤退するときも、これを追いかけることは無かった。
『軍争篇』
逃げるふりを見せて計画的後退をおこなう敵は追撃してはいけない
第4回の川中島の戦いでは、双方が大量に犠牲を出す大きな合戦になったけれど、それでも取り返しのつかない大敗北にはいたらなかった。
だからこそ信玄はより慎重になり、以後、謙信との戦は徹底して避けるようになるんだ。
慎重に、念入りに……だけど、失敗してでもとにかく領土拡大に動き回った信長の方が結果としては領土を広げることになったマボかあ。
でも、その信長も最期は裏切られてるマボだし、どっちもいいところと悪いところがあるみたいねえ、はてはて。
まとめ
- 信玄はとにかく慎重な武将! 用意周到な準備をして勝利を収めた。
- 5回もの川中島の戦いでも決着はつかず! 用心深い信玄はその後、謙信との決戦を避けるように。
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参考文献
- 海上知明(2015)『孫子の盲点~信玄はなぜ敗れたか?~』(ワニ文庫)
- 新田次郎(2005)『武田信玄 風の巻』(文春文庫)
- 新田次郎(2005)『武田信玄 林の巻』(文春文庫)