今回は……。
はて。
戦国ファンには「大河にしてほしい!」なんて声も見かけるテーマなんだよ。
とりあえず、「九州三国志について、転換点となった主要な合戦を3つ挙げてください」とでも、AIに聞いてみると……。
すごい時代ねえ。
いや、ところどころそれっぽい単語は出てくるけど、どれも嘘っぱちだ。
それじゃあ、九州三国志について、見ていきましょう!
目次
50~60年代:大友氏の時代
ただし、本家の三国志も、魏・呉・蜀の三国が最初から拮抗していたわけでもないし、三国がほぼ同時に成立したわけでもない。
九州三国志においても、その勢力には移り変わりがあるんだ。
大友宗麟の台頭
『大友宗麟像』
(大徳寺瑞峯院、京都)
菊池氏を滅亡させて肥後国を得るとともに、肥前国の守護にも任じられた。
また、足利将軍家には献金を続けていて、幕府の九州の出先機関の長である九州探題にも任ぜられるなど、権威を得ることができた。
宗麟は彼らとの戦いに明け暮れていくわけなんだけど、大友氏の北部九州での覇権も長くは続かなかった。
70年代:大友氏、龍造寺と島津にボコボコにされる
今山の戦い:龍造寺の台頭
龍造寺氏は、肥前を治めていた少弐氏に仕えていたんだけど、下克上で戦国大名となり、隆信は佐賀を本拠として肥前を統一していた。
龍造寺隆信は「肥前の熊」の異名も持つ。
『龍造寺隆信像』
(佐賀県立博物館、佐賀)
なんとなく熊さんっぽさが。
普通なら勝てたであろう大友側は、総攻撃の前夜に酒宴を開いていると、龍造寺氏の鍋島直茂に奇襲され、敗戦。
総大将で、宗麟の弟だった大友親貞も討ち取られてしまう。
この戦い自体は局地戦にすぎないけれど、龍造寺氏を滅ぼすことができなかった結果、その後の隆信の拡大を許してしまう。
勢いに乗った隆信は、肥後、筑前、筑後、豊前といった大友領である九州北部に領土を伸ばしていき、「五州二島の太守」の称号を名乗るまでになる。
耳川の戦い:島津氏の勢力拡大へ
島津氏に敗れた大友氏は、この戦いで多くの有力家臣や兵力を失うことになる。
『島津義弘像』
(尚古集成館、鹿児島)
島津の勢力拡大に繋がるわけだ。
一方、敗戦を離反も相次いだ大友家は一気に衰退する。
80年代前半:龍造寺、突然の死と島津の天下
沖田畷(なわて)の戦い
すると九州は、島津家と龍造寺家の実質二強時代へ。
両者は、1584年、島原半島にて、沖田畷の戦いを繰り広げることとなる。
って、どういう意味マボか、はて。
湿地の中にある、ちょっとした小道だと思えばいいかな。
諸事情によりわずかな軍しか送り込めなかった島津氏。
……だったんだけど、沼地にある「畷」の一本道に龍造寺軍を誘い込むと、弓と鉄砲の一斉攻撃を仕掛ける。
混乱して後退する部隊と、後ろから前進する部隊が一本道で大混乱したところで、龍造寺軍は壊滅。
そしてなんと、龍造寺隆信自身が討ち取られてしまうんだ。
龍造寺傘下の勢力も一気に島津氏へ服属し、島津の勢力は九州北部まで拡大した。
九州三国志の時代は、島津氏の制覇で幕を閉じることになる……ように思えたが。
80年代後半:豊臣氏の侵攻
戸次川(へつぎがわ)の戦い:豊臣勢の惨敗
彼らが活路を見出したのが、本州の中央勢力である織田・豊臣勢だった。
大友宗麟は秀吉に大坂で面会し、島津氏の侵攻への救援を求めた。
そこで秀吉は、傘下の四国勢を九州へ派遣する。
軍監は讃岐の仙石秀久。
四国制覇を目前に豊臣勢に敗北し、元の土佐へと押し戻されていた長宗我部元親・信親の親子もこれに加わっていた。
『仙谷秀久像』
(個人蔵)
『長宗我部元親像』
(秦神社、高知)
島津氏といえども、さすがにやられてしまうのでは……。
ところがなんと、戸次川を渡ってきた豊臣勢を急襲することで、島津氏はこれに勝利。
仙谷秀久は敗走。
元親の嫡子・信親をはじめ、有力武将が失われた。
しかし、島津氏はその後、大友宗麟の守る大友氏の本拠・丹生島(にうじま)城(臼杵城)を落とせなかった。
そしてその後の豊臣勢の攻勢を受け、結果、島津氏は降伏。
豊臣氏の九州平定により、九州の戦国時代は終わりへ向かう。
まずは大友氏から。
まとめ
- 九州での大友・龍造寺・島津による三つ巴をもって、俗に「九州三国志」と言われる。
- 大友氏は、島津氏との耳側の戦いでの敗戦を機に、衰退へ
- 龍造寺・島津の時代となるものの、沖田畷の戦いでの隆信本人の死が響き、龍造寺氏は衰退
- 島津が九州の覇権を握るかに見えたが、秀吉による九州平定により、九州の戦国時代は終わりに向かう。
参考資料
- 佐藤香澄編(2008)『戦国九州三国志―島津・大友・龍造寺の戦い』 学研プラス.
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