前回の記事では、
マクシミリアン1世とカール5世の時代まで
を見てきました。
前の記事をチェックしたい人は、こちらを見てくれ~
神聖ローマ帝国の死亡診断書?
プロテスタントとカトリックのキリスト教両宗派の対立をきっかけとして、
ドイツを舞台に「三十年戦争」が繰り広げられた。
そんなに長い間戦争をしていたら、めちゃくちゃになるんじゃ……
戦争は次第に宗教対立から軸を移し、
ヨーロッパの盟主としてのフランスとハプスブルク家の対立や、
神聖ローマ帝国内の諸侯国(しょこうこく)の台頭とこれを抑えこもうとするハプスブルク家、
といった構図になっていく。
元々は、諸侯というのはそれぞれ権力を持っていたんだけど、
それを実力や権威でまとめあげて
「1つの帝国」
のもとにハプスブルク家は支配していた。
しかし、戦後に締結されたウェストファリア条約で、帝国内の諸侯国の主権を認めざるを得なくなった。
なのでこの条約は
「神聖ローマ帝国の死亡診断書」
とも呼ばれている。
それはまさしく主権であった。
なぜなら諸侯は諸侯間はもちろん、さらにはなんと外国とも同盟を結ぶことができたのである。
……ドイツ三百諸侯にそれぞれ同盟権があるということは神聖ローマ帝国が完全に死に体に陥ったことを示している。
それゆえ、このことを定めたウェストファリア条約は巷間、
「神聖ローマ帝国の死亡診断書」といわれた。
まさに神聖ローマ帝国は神聖ではなく、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらなくなったのである。
菊池良生(2003)
『神聖ローマ帝国』
(講談社現代新書)
それじゃあ、神聖ローマ帝国、これでおしまい?
……神聖ローマ帝国はこの後もおよそ100年の間、
再確認されたこの国制の下、
連邦的な法と平和の共同体として、なお実態的に機能していく。
ウェストファリア条約を「神聖ローマ帝国の死亡診断書」とする評価は、すでに過去のものである。
岩崎周一(2017)
『ハプスブルク帝国』
(講談社現代新書)
だけど、その息の根を止めた戦争の天才がいる。
ナポレオンだ。
オーストリア帝国の誕生
ジャック=ルイ・ダヴィッド
『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』
(ベルヴェデーレ宮殿、ウィーン》
でロシア共々フランスに敗れ去った神聖ローマ帝国。
すると、帝国内の諸侯は勝手にフランスよりの同盟を結んで、実質帝国から離脱する。
事ここに至り、名よりも実を取ったほうがいいと判断したんだ。
フリードリヒ・フォン・アマーリング
『フランツ2世』
(美術史美術館、ウィーン)
と同時に、
新たに誕生した「オーストリア帝国」の初代皇帝「フランツ1世」
として即位するんだ。
二重帝国、第一次世界大戦、そして……
- イタリア統一をもくろむサルデーニャ王国に敗北し、イタリア領を失う。
- プロイセン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗。
- オーストリアを盟主とするドイツ連邦は消滅。
フィリップ・ド・ラースロー
『フランツ=ヨーゼフ1世』
(ハンガリー国立博物館、ブダペスト)
帝国内でゲルマン人の次に勢力を誇るハンガリー
に権力を認めなければ、帝国内のその他の民族を抑えこむことができなくなっていた。
そうして生まれたのが、オーストリア=ハンガリー二重帝国だ。
オーストリア=ハンガリー二重帝国の国章
オーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナンドの暗殺をきっかけに始まった第一次大戦。
これに敗れ去ったオーストリアは、
ラスト・エンペラーであるカール1世の退位の末、オーストリア共和国となるんだ。
まとめ
- 三十年戦争を経たウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」とも
- ナポレオン戦争を通じて神聖ローマ帝国は滅亡。オーストリア帝国の誕生へ
- ジリ貧からの二重帝国誕生も、第一次大戦の敗北により帝国は共和国となり、ハプスブルク家は退位した。
関連記事
参考資料
- 岩崎周一(2017)『ハプスブルク帝国』(講談社現代新書)
- 江村洋(1990)『ハプスブルク家』(講談社現代新書)
- 菊池良生(2003)『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書)
- 菊池良生(2009)『ハプスブルク家の人々』(新人物文庫)