
今回は、東ローマ帝国、すなわちビザンツ帝国の歴史について見ています。


ビザンツ⑤│レオン3世│聖像禁止令……「イコン」はなぜ壊された?
前回までの記事はこちらをチェックしてくれ~
バシレイオス2世について見ていこう。
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目次
ブルガリア帝国の脅威
マケドニア朝に至るまで
およそ60年間、「ニケフォロス朝」「アモリア朝」が続く。
そして、867年に誕生するのが「マケドニア朝」だ。
マケドニア地方生まれの農民出身のバシレイオス1世がその開祖。
アモリア朝のミカエル3世の警護から共同皇帝にまで昇りつめたのち、結局皇帝を暗殺して単独皇帝となった。
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ブルガリア帝国とビザンツ皇帝の死
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あの、ヨーグルトの?
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しかし、「帝国」を名乗るってことは、昔はそんなに強い国家だったんですか?
ビザンツ帝国でイサウリア朝の次に続いたのがニケフォロス朝だというのは最初に話したね。
このニケフォロス長を開いたニケフォロス1世は、811年にブルガリア領内に大軍を率いて侵入し、首都プリスカを制圧したんだけど、その後ブルガリア軍の反撃に遭い、ニケフォロス1世は戦死することになったんだ。
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八一一年夏、バルカン山脈の奥深く、皇帝ニケフォロス一世はブルガリア軍の攻撃の前に命を落とした。
数の上では敵を圧倒していた帝国軍であったが、山中で罠にはまり壊滅的な敗北を喫したのである。
討ち取られた皇帝の頭蓋骨は銀箔の酒杯にされ、ブルガリアの君主クルムはつき従うスラヴ人の族長たちにこれで酒をふるまったという。
(ローマ)帝国にとって皇帝の戦死という事態は、四世紀のユリアヌス、ワレンス帝以来の不名誉な出来事であった。
「勝利を運ぶ者」(ニケフォロス)との名前に反する最期を遂げた皇帝に対し、同時期に編纂された『テオファネス年代記』は言葉のかぎりを尽くして非難・中傷を加えている。
彼の内政上の施策はひたすら「悪行」として暴きたてられ、その敵意に満ちた記述は聖像破壊派(イコノクラスト)の皇帝たちをもしのぐほどである。
皇帝のブルガリア遠征でのみじめな死とは、彼のたび重なる暴政に対し神が加えた当然の懲罰なのであった。
(中略)
九〇名を超えるビザンツ国家の君主たちで、ニケフォロス以後の戦死はたった一人しかいない。
それは最後の「皇帝」コンスタンティノス11世で、彼は首都陥落の際に行方不明となるのである。
それだけに、やはりこの出来事は異例だと言える。
中谷功治(2020).
ビザンツ帝国-千年の興亡と皇帝たち 中公新書.

プリスカの戦い
(コンスタンティノス・マナシス「マナシス年代記の細密画」)

ニケフォロスの頭蓋骨で作られた盃を飲むクルム
(コンスタンティノス・マナシス「マナシス年代記の細密画」)

なんという帝国マボか、はて……。
まあ、この盃の話は、後世の作り話だとも言われている。
いずれにしても、ブルガリア帝国がビザンツ帝国を脅かす存在だったことは間違いなかった。
その後、9世紀末のシメオン1世の治世には、コンスタンティノープルを脅かすに至っている。
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「ブルガリア皇帝シメオン1世」
(アルフォンソ・ミュシャ『スラブ叙事詩』)
ブルガリア帝国の最大版図を築き、バルカン半島の大半を占領してビザンツ帝国を圧倒したシメオン1世は、「バシレウス」の称号も名乗り、更には「ローマ人とブルガリア人の皇帝」とも称した。
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「ブルガール人殺し」バシレイオス2世
ブルガリア帝国を滅ぼす
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「異民族を平伏させる軍装のバシレイオス2世(復元画)」
(国立歴史博物館、アテネ)
1014年、クレディオン峠の戦いで、バシレイオス2世は圧勝を収める。
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苦闘の末の一〇一四年、ストリュモン川付近でブルガリア軍兵士一万四〇〇〇人を捕虜にした皇帝は、彼らの百人に一人は片目を、それ以外は両目を潰して故国に送り返したという。
たぶんに伝説的な残酷きわまるこの措置の効果は絶大で、ブルガリアの君主サムエルはショックのあまり直後に急死したと伝えられる。
こうして、第一次ブルガリア王国は一〇一八年に滅亡し、その領土はビザンツ帝国に併合された。
あのニケフォロス一世がめざした野望が実現したのである。
この「偉業」の裏側でバシレイオス二世は「ブルガリア人殺し(ブルガロクトノス)」のあだ名をもらうことになった。
中谷功治(2020).
ビザンツ帝国-千年の興亡と皇帝たち 中公新書.

(上)ブルガリア軍に勝つビザンツ帝国軍
(下)盲目の捕虜達の帰還に卒倒するサムエル
(コンスタンティノス・マナシス「マナシス年代記の細密画」)
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この戦いの4年後にブルガリア帝国が滅んでしまったのにも納得がいきます。
ユスティニアヌス帝以来の最大版図
それは、ブルガリア帝国を滅ぼすことで400年ぶりに奪還したバルカン半島に留まらない。
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- 東西での彼の軍事上の威光にひれ伏すかのように、ギリシア正教を信奉するセルビアに加え、カトリックであるクロアチアもビザンツ帝国の属国となった。
- 同様に、アルメニアに加えてコーカサス地方のイベリア(現在のジョージアあたり)も帝国領に組み込まれる。
- バルカン半島では久しぶりにドナウ川が国境線となり、シリアやアルメニアを併合してイスラム勢力との最前線は、アナトリアのはるか東方に移動していた。
- 帝国の支配領域はユスティニアヌス一世期のビザンツ世界にもっとも近づいた。しかも、うち続く外征にもかかわらず、当時の国庫はむしろ増大していたのだという。
中谷功治(2020).
ビザンツ帝国-千年の興亡と皇帝たち 中公新書.

Wikipedia「バシレイオス2世」(2022年12月11日確認)

Wikipedia「ユスティニアヌス1世」(2022年10月15日確認)
※ユスティニアヌス帝時代の東ローマ帝国(青色部分)

イタリアの北側や、アフリカ大陸北部など、地中海世界の一部は戻っていませんが、
それでも、かなりの領土を治めていることがわかりますねえ。
ユスティニアヌス帝以来の偉大な皇帝だったということが、よくわかりましたマボ。
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まとめ
- 遊牧民のブルガール人とスラブ人が入り混じったブルガリア帝国はビザンツ帝国を脅かし、皇帝ニケフォロス一世を敗死させることもあるほどだった。
- バシレイオス2世はブルガリア帝国を滅ぼし、マケドニア朝の最盛期を実現。
- その後も親征を盛んにおこない、ユスティニアヌス帝以来の最大領土を獲得。
参考資料
- 中谷功治(2020).ビザンツ帝国-千年の興亡と皇帝たち 中公新書.
参考記事

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