今回は、戦国時代の九州地方での三つの勢力による争い、「九州三国志」の記事の続きです。
【九州三国志】④龍造寺隆信│「五州二島の太守」から「沖田畷の戦い」の壮絶な最期へ
前回までの記事はこちらをチェックしてくれ~
「戦闘民族」島津家
※2023年8月6日確認
穏やかじゃないマボね。
1600年の関ヶ原の戦いのエピソードを紹介するよ。
西軍の一員として関ヶ原の戦いに参加していた島津家。
しかし、小早川秀秋が西軍を裏切り、家康方の東軍についてしまったことから勝機が無くなると、この戦場をいかにして脱出するかに腐心することになる。
そりゃあ、島津家としても大変だったはずマボよねえ。
※以下、『風雲児たち』第1巻より。
はて。
朝鮮の役って、秀吉が朝鮮半島を攻めた戦いですかね。
ちょっと頭がおかしくなるような数字です、はて。
多少は数字を盛っているんでしょうが……。
『島津義弘像』
(尚古集成館、鹿児島)
こ、こんなの絶対助からないはずマボよ~!
このエピソードだけでも、島津家の「戦闘民族」ぶりを語るには十分だけど、
「九州三国志」時代、島津家が九州でどんな猛威を振るったかをここからは『センゴク権兵衛』を参照しながら見ていこう。
耳川の戦い:大友家の没落
その後、島津氏内で分家が出たことや、他の大名が領土を支配していたことから、三州全てを支配下には置けない状況にあったのを、
島津義久・義弘兄弟の「両殿体制」のとき、三州統一へ邁進することになる。
新名一仁(2021)『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書 より
「耳川の戦い」だ。
島津の先鋒を破ったところで、大友軍が突出したところ、伏兵部隊が大友軍を攻撃し、その後、島津勢は大友軍を包囲。
撤退する大友軍は、耳川にて多くが溺死するが、追撃を受けて殺されてしまう。
当時の九州において最も有力な大名家だった大友氏は、これを機に衰退に向かってしまう。
沖田畷の戦い:肥前の熊さんの返り討ち
そうなると、九州北西部の龍造寺家とぶつかるのは必然だった。
結果はご存じのとおり。
龍造寺家は、当主である隆信自らが討ちとられるという、ほぼ類を見ない大敗北を喫することになり、大きく勢力を縮小させてしまう。
このときもまた、龍造寺勢25,000に対し、5,000程度の寡兵で島津家はこれを覆している。
このときの島津家の総大将は、島津四兄弟の末弟、島津家久(いえひさ)だった。
戸次川の戦い:豊臣勢を一度は葬り去る
しかし、その九州平定の緒戦においても、島津家はこれを撃退する。
「戸次川の戦い」だ。
このときもまた、島津家の総大将だった家久は、豊臣勢をボコボコにしてしまう。
仙谷秀久(せんごく・ひでひさ)や、
長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)といった、
四国の大名たちを中心とした連合軍だった。
しかし、この大名たちはもろくも敗れ去り、
讃岐の大名である十河存保(そごう・まさやす)や、
長宗我部元親の長男である信親(のぶちか)が敗死するなどの打撃を受けたんだ。
この調子で、豊臣勢も追い払うマボよ~!
結果、九州の大部分を失うことにはなるものの、島津家はその後も武名でもって全国に存在感を持つ大名であり続け、関ヶ原の戦いの敵中突破も相まって、現代に至るまで、ある種の伝説的な地位を築き続けることになったというわけだね
まとめ
- 「戦闘民族」とも称される島津家は、数々の戦場で寡兵ながらも敵を打ち破り、九州平定にこぎつけた。
- 豊臣軍との緒戦を制しながらも、最終的には秀吉の前に降伏。
- 関ヶ原の戦いの敵中突破は、島津家の伝説的なエピソードへ。
参考資料
- 新名一仁(2021)『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書.
- 桐野作人(2010)『関ケ原 島津退き口』学研プラス.
- 佐藤香澄編(2008)『戦国九州三国志―島津・大友・龍造寺の戦い』 学研プラス.
- みなもと太郎『風雲児たち』潮出版社.
- 宮下英樹『センゴク権兵衛』講談社.
参考記事
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