【トロンプルイユ】だまし絵 もうひとつの美術史

こんにちは、はてはてマンボウです。

今回のテーマは……「だまし絵」マボか。

 

だまし絵というと……。

 

エッシャー『昼と夜』

 

ああ、そうそう。こんなイメージまぼ。
ところが、今回紹介する「だまし絵」はちょっと違うんだ。
梓
はて?

 

谷川渥 (2015)

『図説 だまし絵: もうひとつの美術史』(‎河出書房新社)

 

というわけで今回は、

『だまし絵 もうひとつの美術史」

を参照しながら、

だまし絵とは何か、

どんな種類があるのかを見ていくよ。

梓

 

だまし絵の定義

「本物そっくり」という定義

カール・ホフワルベリ『トロンプルイユ1737』

(ロイヤルアーモリー、ストックホルム)

 

ボレル・デル・カソ『避難からの逃走』

(スペイン銀行、マドリード)

 

『だまし絵 もうひとつの美術史」では、だまし絵のことを、

「本物そっくり」
「だけど、見ているうちに本物じゃないとわかる」

という特徴があると指摘している。

梓

 

だまし絵とはなんだろう。

 

だまし絵という言葉は、フランス語のトロンプ=ルイユ(trompe-loeil)の訳である。

文字どおり「目をだます」「目をあざむく」という意味だ。

たしかに、だまし絵は、まずもってだますことを狙いとする。

だがそれは、だますふりをして結局だまされないからだまし絵なのである。

この逆説の上に、だまし絵は成り立っている。

 

(中略)

 

「本物そっくり」という表現そのもののうちにすでに介在する、「だます」ことと「だまされない」こととの微妙な距離こそが、レトリカルな戯れを可能にするといってもいい。

 

なーんか難しいことが書いてありますが、

「うおっ」と思わせておいて、結局は、
「ふふ、騙されないマボよ~」

とこっちに思わせるのがだまし絵というわけマボか。

 

エッシャーはだまし絵ではない?

一方、世間一般の人たちが頭に浮かべるエッシャーのような錯視を利用した作品は、「だまし絵ではない」と否定されている
梓

 

目をだます、目をあざむくといっても、心理学的錯視のようなものに短絡して、

同じ長さなのに短く見えたり長く見えたりする線分や、

アヒルに見えたり兎に見えたりする図像を、

あるいはそうした錯視の体系的な利用によって数々の視覚的トリックを構成してきたM・C・エッシャーのような画家の作品を思い浮かべてはならない。

しかしエッシャーの作品は、基本的に地と図の反転とか多義図とかいった心理学的メカニズムにもとづいて周到に構成されている。

 

つまり、一枚の絵で黒い部分に注目すれば二人の顔が向き合っているように見えるが、白い部分に注目すれば優勝カップのように見えるとか、

ひとつの図像が、見方を変えれば、若い女性にも老婆にも、

あるいは兎にもアヒルにも見えるとかいった、

おなじみのあれである。

 

(中略)

 

だまし絵は、それを見たときに、なんらかのレベルでの実在感を与えるものでなければならないし、

ときとしてその実在感ゆえにかえって注意を惹かないものだからである。

 

つまり、「ミューラー・リヤー錯視」と呼ばれるアレとか……
梓

wikipedia「錯視」より

(2021年7月3日閲覧)

 

『古畑任三郎』の「しゃべりすぎた男」の冒頭でも出てくるアレとか……
梓

W.E.ヒル 『妻と義母』

 

また、エッシャーやマルグリットのように、

「錯視を利用している、非現実的な世界観」

の作品は、「だまし絵」ではない、というわけだ。

梓

 

エッシャー『昼と夜』

 

ルネ・マグリット『白紙委任状』

(宮崎県立美術館、宮崎)

 

いわゆる「トリックアート」も、「だまし絵」と「そうでないもの」に分かれそうですねえ。

 

ハエと貼り紙

西洋絵画を見ていると、ときどき、わざと画題と無関係なハエを描きこんでいる作品がある。
梓

 

 

『芸術家とその妻の肖像』(王立美術館、アントウェルペン)

 

あ、ほんとマボ。

うーん、追い払いたくなるわねえ……

実は、その追い払いたくなる気持ちこそ、画家の狙いなんだ。
梓

ドイツ・シュヴァーベンの画家が描いた《ホーファー家の女性の肖像)(一四七〇頃)や、

フランクフルトの画家が描いた《芸術家とその妻の肖像》(一四九六)になると、

これはもうはっきりとだまし絵の域に入っている。

女性たちの頭のを包む白布の上に止まった一匹の蠅は、明らかに見ていて邪魔であり、追い払いたいという欲望を惹起するからだ

 

蠅という小さな存在が画家の卓抜なテクニックを指し示し、観る者の意識をあらためて絵の全体に行きわたらせる。

「本物そっくり」の蠅は、自分自身の存在をだまし絵的に誇示するが、

逆に絵画そのものの二次元性、平面性に気づかせるという役割を担っている。

 

ただの蠅にそんな深遠な意味が……!

 

奥行きの利用

壁龕(へきがん)

壁龕(へきがん)というのは、壁の中につくってあるくぼみのこと。

彫像などを置くために、西洋建築ではよく見られるんだ。

これを絵画の中に落とし込むと……。

梓

 

ヤン・ファン・エイク『受胎告知』

(アルテ・マイスター絵画館、ドレスデン)

 

ありゃまあ、本物そっくりマボよ。

うんとこしょって、持ち運びたくなるわねえ。

壁のくぼみと灰色の質感からくる立体感が、あたかも本物の彫像みたいな一枚だ。
梓

 

アンドレア・マンテーニャ『聖マルコ』

(フランクフルト市立美術館、フランクフルト)

「へい、お姉ちゃーん」って感じのポーズまぼねえ。

ナンパするぜえ、おらおら~。

 

壁龕の手前へ肘は飛び出ているけど、その先の手は顎髭の下に隠れている……。

みかんを置いたり、画面奥側に向けて本を立てかけたりと、重層的な画面の構図を意識した図だね。

梓

 

ボレル・デル・カソ『避難からの逃走』

(スペイン銀行、マドリード)

 

はて!

一瞬、ドキッとするような絵マボねえ。

そのドキッとさせられる感覚も、画面の中からこちらに迫ってくるかのような構図が生み出している、というわけだ。
梓

 

重力と重なり合い

レター・ラック

カール・ホフワルベリ『トロンプルイユ1737』

(ロイヤルアーモリー、ストックホルム)

 

紙の束のあたりで、もにゃっと厚みを感じさせる絵マボねえ。
銃の裏に写る影や、折り重なる紙の束が、一枚の絵そのものにちょっとした厚みがあるような印象を与えるね。

 

しかし、影がどれもすぐ右に少ししか伸びていないのを見ると、おそらく光は我々鑑賞者のすぐ隣から当てられているんじゃないかなと、考えさせられてしまう。

梓

 

吊られた動物

ジャン=バディスト・ウードリー『白い鴨』

(ショルモンドリー・コレクション、ロンドン)

 

最後は静物画マボか。

 

この「吊られた動物」という構図では、

床に置いてあるものを真上から覗いたり、

山盛りになっているオブジェを正面から見たりするのではなく、

「ぶら下がっている」からこそ、重要な効果を生んでいるように感じられる。

重力に従って上から下へと我々の目線が行こうとするからこそ、折り重なりが生み出すちょっとした厚みが、力強い奥行きになっているんじゃないかな

梓

 

いろんなだまし絵に、はっとさせられたわねえ。

まとめ

  • 「本物そっくり」「だけど、見ているうちに本物じゃないとわかる」というのがだまし絵。別名、「トロンプルイユ」
  • エッシャーの絵のような錯視を用いた絵は「だまし絵」ではない。
  • 奥行きの中の折り重ないで厚みを感じさせるような構図が、見る者の目を惹きつけている。

 

参考資料

  • 谷川渥 (2015)『図説 だまし絵: もうひとつの美術史』(‎河出書房新社)

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