【仏像/イコン/偶像崇拝】「仏教」と「キリスト教」の意外な共通点?

こんにちは、はてはてマンボウです。

今回は……。

仏像とイコン?
偶像崇拝?

はて……どんな話になるのかさっぱり分かりません。

そう、この話は、とあるyoutubeを見ていたときのこと……
梓

 

佐々木閑先生「仏教再発見の旅」

佐々木閑先生

いつものように、佐々木閑先生のyoutube「仏教再発見の旅」を見ていたんだけど……。
梓
……入りが唐突かつディープなあまり、置いていかれてしまったマボ、はて。
佐々木閑先生は、花園大学で教授を務める、
仏教哲学、古代インド仏教学、仏教史の研究者の方

コロナ禍を機に授業をyoutubeで配信されたようなんだけど、その後もずっと、仏教に関する配信を続けてくださっているんだ。

しかも、収益化を目的にしていないから、CM無しでずっと視聴できる。

梓
立派な方なのねえ、御見それしました。
さて、いくつかのシリーズの中で、
「仏教再発見の旅」
と題するものがある。

仏教がどのように広がったかや、どのように研究されてきたかを解説する内容なんだけど、その第11回を見ていたとき……。

梓

ウパグプタと仏像

 

ウパグプタというお坊さんが出てくるんだけど、
お釈迦様の邪魔をしたこともある「魔」が、このウパグプタとも対決する。

いろいろあって、魔がウパグプタに敗北するんだけど、そのとき、ウパグプタが魔にあるお願いをすることに……。

梓

(動画の16:30~の内容をまとめると……)

  • ウパグプタは魔に、「お釈迦様の姿に変身してくれ!」と頼む。
  • 魔は、
    釈迦に化けた自分を拝むことだけは止めてほしい」
    釈迦でもない悪である自分が拝まれると、その欺瞞の力で焼け死んでしまうから!」
    と念を押し、ウパグプタはこれを承知する。
  • お釈迦様に化けた魔が出てきたとき、ウパグプタはついつい拝んでしまう
  • 「焼け死ぬ~」と思った魔だが、何も起きない
  • ウパグプタは、
    今回拝んだこと自体は問題ない。
    なぜなら、自分はおまえを拝んだわけではないからだ

    と述べ、
    「仏像に手を合わすとき、
    人は、目の前の仏像そのものを崇拝しているのではなく、

     その奥にあるブッダを拝んでいる」
    と語る。

 

途中、コントみたいな流れもありましたが……。

なるほど、そういう理屈で魔は大丈夫だったんですねえ。

佐々木先生は、

「このエピソードには、仏像崇拝を根拠づける理屈が隠されているようにも思う」

と語っている。

「仏像なんて拝んで何になる」という批判に対し、

「仏像はあくまで触媒であって、物体の奥の本質を拝んでいる」
という反論になるんだ、ということ。

梓

「窓」としての西洋絵画

この話を聞いたとき、キリスト教と西洋絵画の関係性によく似ているなあと思ったんだ。
梓
はて。

なんの関係もなさそうに見えますが……。

キリスト教やユダヤ教においては、偶像崇拝が禁止されているんだ。

だから、本当は絵画を描いたり、聖像を作ったりしてはいけない。

梓
なんと!
でも、聖書の登場人物やエピソードを描いた絵はたくさんありますよね?
そこにいろいろと理屈付けがされた。

例えば「イコン」。

イエスやマリア、聖人の画像を崇敬するために使われる絵画は「イコン」と呼ばれる。
ギリシャ正教では、イコンを通して信仰を深める、重要なものとされたんだ

梓

アンドレイ・ルブリョフ『至聖三者』
(トレチャコフ美術館、モスクワ)

 

ニカイアにおける第7回目の全地公会議(787年)で採択されたイコン崇敬に関する決議は、神学的にはきわめて控えめであるが、主要な論点として以下の三つをあげている。

①イコンは「原像の想起とそれへの憧憬」を目覚めさせる。

②イコンに対して表された敬意は原像へと向かう
よって、イコンの前に跪き、それを崇敬する者は、イコンの中に描かれた方のペルソナを崇敬している。

③イコンには、神にしか帰されない「礼拝」ではなく、「あいさつ」や「うやうやしい崇敬」が帰される。

出所: 久松(2012)、pp.107-108。

ここには、要するに、
・イコンのおかげで、神や聖人への敬意を持つことができる。
・イコンそのものは大事だから、大切にするよう「崇敬」はするけど、「崇拝」はしない
ということが言われているんだ。
梓
さっきの仏像の話と一緒マボ!
また、絵画や聖像は対象を崇拝するための「窓」とも言われていたんだ。
梓

 

中世の人々も、聖書に従って偶像崇拝を禁止しようと考えたかもしれませんが、
しかし識字率の低い時代にあって、文字による布教や説明にはおのずと限界があり、
イメージの力に頼ることになります

そこで、矛盾を解消すべく、たとえば聖母子像なども、
これは直接の崇拝対象となる偶像として描いたものではなく、
それを介して、そのむこうにいる信仰対象を崇拝するための「窓」、あるいは「聖なる容器」という説明がなされました。

であれば、聖母子像も、「聖なる容器」として相応しいとされた形式を忠実に繰り返すことが求められました。
つまりその絵そのものは実体ではなく「相応しい形式をもつ容器」にすぎず、
よって画家による個性などが発揮されるべき場所ではなくなります。

 

出所: 池上(2018)、p.76。

意外なところに、仏教とキリスト教の共通点が見えてきますねえ。
もっとも、この話を根拠に、
「仏教とキリスト教は関係の深い宗教だ!」
と、短絡的につながるわけではないけどね。

異なる宗教に似たエピソードがあるのが興味深い、というお話でした。

梓

 

まとめ

  • 仏像崇拝の理屈
    佐々木先生の動画では、仏像は物体そのものではなく、その奥にあるブッダの本質を拝む行為であると、偶像崇拝への批判に対する理論的な反論として解説された。
  • キリスト教におけるイコン崇敬
    キリスト教ではイコンを通じて信仰対象を崇拝することが認められ、また絵画そのものは「窓」や「容器」として信仰を深める役割を持つ。
  • 仏教とキリスト教の共通点
    仏像やイコンは共に、物体そのものではなく、その背後にある本質や信仰対象を感じ取る媒介物であるという共通した思想を持つ。

 

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ギリシャ正教が信仰されたビザンツ帝国の歴史について書いています。

ビザンツ⑤│レオン3世│聖像禁止令……「イコン」はなぜ壊された?

 

参考文献

  • 池上英洋(2018)『西洋美術史入門〈実践編〉』筑摩書房。
  • 久松英二(2012)『ギリシア正教 東方の知』講談社選書メチエ。
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