ビザンツ⑧│ヴェネツィアに唆された第4回十字軍/なぜ、コンスタンティノープルへ?

こんにちは、はてはてマンボウです。

今回は、東ローマ帝国、すなわちビザンツ帝国の歴史について見ています。

 


 

 

 


 

長らく続いたこのビザンツ帝国シリーズも今回が最終回。

第4回十字軍による”滅亡”と、地方政権による”復活”を見ていくことにしよう。

梓

 

悪名高き「第4回十字軍」

ヴェネツィアとの共闘から目的を見失い……

前回の記事では、十字軍とイスラームの戦いに乗っかって、ビザンツ帝国も領土を取り返したりしていましたね。

今回もそんな感じの話マボか?

今回は、その十字軍によって、ビザンツ帝国が一度”滅亡”してしまう、という話。
梓
なんと!?

領土回復どころか、滅亡!?

なぜマボか~

第4回十字軍は、当初、イスラームのアイユーブ朝の拠点であるエジプトのカイロを海路から攻撃しようとし、
そのための輸送を、ヴェネツィア共和国に頼んでいた。

しかし、十字軍側の参加者が予定の3分の1しか集まらず、ヴェネツィアへの船賃が足りなくなってしまった

そこで、ヴェネツィアとの交渉の結果、十字軍は手始めに、ヴェネツィアからハンガリーに奪われていた都市・ザダルを攻め落とし、船賃に充てることとした

ザダルは、同じキリスト教徒の都市国家だったんだけどね……。

梓

こうして1202年晩秋、ヴェネツィアと十字軍の連合軍が、朱色のガレー船に乗った共和国主張に従ってザダルへむけて出発し、11月10日に到着した。

港はたちまち奪われ、ヴェネツィア軍と十字軍舞台は死骸に群がるハゲタカのように戦利品を巡って争った。

 

ジェイムズ・ハーパー、本村凌二監修(2008).十字軍の遠征と宗教戦争 原書房.

この時点で、完全に目標を見失っているような……

 

亡命皇子│ミイラ取りがミイラに……

そんな十字軍の下へ、ビザンツ帝国の亡命皇子であるアレクシオスが訪れる。
アレクシオスは皇帝イサキオス2世の息子なんだけど、帝位は伯父であるアレクシオス3世(同名の別人)に奪われていたんだ。

そこで、アレクシオスは、帝位の回復に協力するよう依頼し、その見返りとして、

・ヴェネツィアへの負債の肩代わり
・ビザンツ帝国の十字軍への参加
・ローマ・カトリック教会へのギリシャ正教の服従

を約束した。

梓
な、なんだか嫌な予感しかしないマボけど……。
十字軍のコンスタンティノープルへの攻撃により、アレクシオス3世は逃亡、幽閉されていた先帝・イサキオス2世が復位することになる。

こうして、復位を持ち掛けた末、父イサキオス2世との共同皇帝に即位したアレクシオス4世だった。

が、肝心のお金がない。

ローマ・カトリックへの追従も、正教会の抵抗に遭う。

やがて、コンスタンティノープル内で反乱が起こり、イサキオス2世とアレクシオス4世は共に殺され、反乱を先導したアレクシオス5世ムルヅフロスが新帝となる。

……だからといって、十字軍にお金が払われるわけではない。

そして、1204年4月9日、十字軍の攻撃が開始される。

梓

 

ティントレット『1204年にコンスタンティノープルの城壁へ襲い掛かるヴェネツィア軍』

(ドゥカーレ宮殿、ヴェネツィア)

 

勝利を確保すると、十字軍の司令官たちは、攻囲戦に勝ったときの習慣として、部隊に3日間のやりたい放題を許可した。

史上もっとも破壊的な略奪の嵐のさなかで、コンスタンティノープルの人々は殺され、強姦され、金品を強奪された。

何百年もの歴史のある高価な宝物が強奪され、あるいは破壊された。

 

 

ジェイムズ・ハーパー、本村凌二監修(2008).十字軍の遠征と宗教戦争 原書房.

 

ウジェーヌ・ドラクロワ『コンスタンティノープルの陥落』
(ルーヴル美術館、パリ)

こうして、ビザンツ帝国アンゲロス朝は滅亡する。

なお、ビザンツ帝国領を獲得した十字軍は領土に残ったことから、それから遠征に向かうことはなかった。

梓
高尚な目的のはずの十字軍が、こんなにもまあ俗物丸出しの結果になるとは、はて……。

 

ラテン帝国と地方政権

コンスタンティノープルには、新たな国家としてラテン帝国が建国され、十字軍に参加した諸侯により領土が分割された。
梓
ということは、ビザンツ帝国は滅亡してしまったマボか~!?
ところが、ビザンツ帝国の皇族たちは、帝国周辺各地に亡命することで、それぞれに地方政権を打ち立てていた。

代表的なのは「ニカイア帝国」「トレビゾンド帝国」で、それぞれがビザンツ帝国の後継国家であると称していた。

梓

ニカイア帝国の国旗

 

例えば、ニカイア帝国は、正式な国号はビザンツ帝国同様「ローマ帝国」を名乗っていたし、君主も「ローマ皇帝」を自称した。
梓
細々とがんばっていたわけマボねえ。

涙ちょちょぎれるマボよ。

徐々に国力を蓄えたニカイア帝国は、1261年7月、ヴェネツィア海軍の留守中にコンスタンティノープルを再征服し、ラテン帝国を滅ぼした。

ニカイア帝国はラスカリス家が代々帝位を継承していたんだけど、摂政だった実力者・ミカエル8世パレオロゴスがハギアソフィアにて戴冠し、先帝・ヨハネス4世の目を潰して追放した。

こうして、コンスタンティノープルを回復したビザンツ帝国では、パレオロゴス王朝が創始されることになる。

梓

『ミカエル8世パレオロゴス』

(バイエルン州立図書館、ミュンヘン)

 

ラテン帝国を滅ぼすと言いながらも、ニカイア帝国内部でも権力闘争があったわけマボね。

穏やかじゃないマボ……。

ミカエル8世パレオロゴスは、「最も狡猾なギリシア人」と呼ばれるほどの策略家だったそうだ。

彼の開いたパレオロゴス朝こそ、ビザンツ帝国最長にして最後の王朝となる。

 

さて、次回でこのシリーズも最終回。

オスマン帝国による正真正銘の「ローマ帝国」の滅亡を見ていこう

梓

 

まとめ

  • 第4回十字軍を頼ったことが仇となり、ビザンツ帝国は一度”滅亡”し、ラテン帝国が建国される。
  • ただし、地方政権として存続していたニカイア帝国により、ビザンツ帝国は復活
  • その後、パレオロゴス朝が、ビザンツ帝国最長にして最後の王朝へ

 

参考資料

  • ジェイムズ・ハーパー、本村凌二監修(2008).十字軍の遠征と宗教戦争 原書房.

 

参考記事

「ビザンツ帝国」に関する記事はこちらマボ!

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