今回は、禅問答の紹介マボか。なんだか難しそうねえ。
禅宗の概要はこっちの記事を見てくれ~
「簡単には答えのないいろいろなことを考え、発想する」
ための手がかりとして「アート思考」を好む人たちもいる。
禅問答は、そんな人たちのためのヒントとなるかもしれないね。
どんな内容か見ていこう。
言葉や文字で表現し尽くすことはできない
「なんかよくわからないことをしゃべってる」って意味で使われていることが多いマボけど。
禅では、
そもそも言葉だけでは真理を伝えられない、
という発想がある。
禅は、
「仏法(真理)は、言葉や文字で表現し尽くすことはできない」
という考え方を基本にしています。
それゆえ、文字による表現を嫌います。
これを「不立文字(ふりゅうもんじ)」といい、
そこから、坐禅、という実践によって自ら悟ることの重視が導かれます。
そしてそのような教えは、言語を超えて
「心から心へ」
と伝授されるものです。
この「心から心への伝授」が「以心伝心」です。
石井清純(2014)『禅問答入門』(角川選書)
教えられた側から真理の世界に近づいていく姿勢が必要になる。
「情けをかけることは自分だけでなく他人のためにもなりますよ」
という意味で、
「情けは人のためならず」
ということわざがある。
「自分のためになるからどんどんやりなさい」なのか、
いっつもわからなくなるアレまぼね。
実際に他人に情けをかけてみて、かつ、自分に何か見返りがあって初めて、
「ああ、あのことわざって本当だったんだ」
って思うよね。
見返りがなければ、「このことわざって本当なのかな」と考え始めることにもなる。
いずれにしても、ただその言葉を教えられただけじゃ、世の中の真理は見えてこない。
自分の頭で考えることばなにより重要なんだ。
……このように、禅問答は、
表現しきれないものを表現しようとする、
という動機の上に立っていますから、
いつどのようなシチュエーションでも通用するような「正解」をもつことができないのです。
説明的な、あるいは直接的な答え方を嫌い、
さらに、複合的に解釈できるような言葉を用いて、わざと真意の確定ができないようにし、
最終的には「答えは自分で探す」ことを求めているのです。石井清純(2014)『禅問答入門』(角川選書)
悟っているブッダに対し、周りの人が、
「どうすれば悟れますか」
としつこく食い下がったところからスタートする。
「まあ、教えてわかるものでもないけど、そこまで言うなら……」
として始まったのがブッダの教えであるのを考えれば、禅問答とは原点回帰なのかもしれない。
平常心是れ道
『はじめての「禅問答」~自分を打ち破るために読め!~』
に収録されている禅問答を抜粋して見てみよう。
山田史生(2013)『はじめての「禅問答」~自分を打ち破るために読め!~』(光文社新書)
師(趙州)が南泉に問う。
「道とはどういうものですか」
「平常心がそれだ」
「それをめざすのでそゆか」
「めざしたりすれば、とたんにパアになっちまう」
「めざさなければ、どうやってそれが道だと知ることができましょうか」
「道は知る知らぬということとは関係ない。
知っているというのは勘違いだし、知らぬというのは無関心だ。
めざさない道に達したなら、
雲ひとつない大空のようにカラリと晴れわたる。
いちいち是非をあげつらったりせんでよし」
師はたちどころに奥深い真理を悟り、心は明月のようにかがやく。
あっちにいったりこっちにいったりする文章です。
ちなみに禅問答の発想から言えば、この解説だって真理ではなくあくまで参考にすぎないので、
「なるほど、こういう考え方もあるのか」
という気持ちで読んでみるといいかもね。
趙州の「道とはなにか」という問い方は、
悟りというゴールのことばかり気にして、そこに至るまでのプロセスは二の次になっている。
「ふだんのあり方が道だよ」
と南泉はさとす。
目的地にたどりつくことよりも、
歩くこと自体のほうが大事なんじゃないかな、と。
道ばたの草花を見たり、小鳥のさえずりを聴いたりといった経験も楽しいと思うけど、と。
(中略)
マジメな趙州は、ものごとを目的と手段との関係で考えている。
そんなふうに考えていると、その目的と手段との関係のなかにはいってこないものは、すべて「ムダである」としかおもえなくなってしまう。
いったい坐禅とは悟りという目的に達するための手段でしかないのだろうか?
もし悟れなかったら坐禅したことはムダなのだろうか?
これまで自分の人生に起きてきたことは、今後の自分の人生にどんな意味を持つのか。
これまで坐禅を組んだことに意味があるとするならば、それは何なのか。
そんなことが考えられるのかもしれない。
桶のなかはなにかね?
南泉が大衆に粥をふるまっていたときに、馬祖がたずねる。
「桶のなかはなにかね」
「この老いぼれ、口を閉じたまま、なにをほざいておるのか」
馬祖は二の句がつげない。
大勢のための朝の炊き出しで大忙しのときに、
のそのそやってきたおじいさんが、わかりきったことを聞いてきたら、
文句の一つも言いたくなるかもしれない。
南泉が朝食の粥を給仕していたとき、馬祖は桶の中身をたずねた。
桶の中身は粥に決まっている。
南泉は
「粥を食う気がないのなら、あっちへいってくれ」という。
この忙しいときに、つまらない説教につきあっているヒマはない、と。
顔にくっついている口は、いまは粥を食べるのに使うべきであって、
無駄口をたたくのは口を閉じているのといっしょだ、と。
もし馬祖が説教をしにやってきたとすれば、被災者のために炊き出しをしているところにあらわれて
『メニューはなに?』
と訊くような、おそろしく場違いなふるまいである。
食べにきたのなら粥をやるが、見物にきたのなら炊き出しを手伝うがよい。
「いま・ここ」
がどういう現場であるかを心得よ。
南泉の叱責をこうむって、馬祖は一言もない。
そういう話だとおもうのだが、そうじゃないのかもしれない。
食事時にペチャクチャしゃべることは禁じられている。食べるときは食べることに専念すべきである。
食事時にしっかり食べることも修行である。
その黙っているべき食事時に馬祖は
「桶のなかはなにかね」
とマヌケな問いを発した。
馬祖のくだらない問いかけに南泉は引っかかり、
この老いぼれときたら、と口を滑らせてしまった。
この忙しいときに、と文句をいってしまった。
つまらない引っかけにつきあってしまった。まんまと馬祖にしてやられたってことはないだろうか?
「相手が忙しいときに説教なんてするもんじゃない」
という話だったのが、
今度の文脈では、
「忙しいからといって、心まで殺してはいけない」
という話とも読み取れる。
まとめ
- 「仏法(真理)は、言葉や文字で表現し尽くすことはできない」という発想が禅問答の根底
- 1つの公案(禅問答)でも、いかようにも解釈は成り立つ
- 重要なのは、その解釈を自分の頭で自分なりに導きだすこと
参考資料
- 石井清純(2014)『禅問答入門』(角川選書)
- 山田史生(2013)『はじめての「禅問答」~自分を打ち破るために読め!~』(光文社新書)
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