今回は滋賀県の琵琶湖を回遊しているマンボウ。
豊臣秀吉が若かりしころに治めたのが、ここ、長浜の地なんだ。
マンボウ、知りませんでした。気になるわねえ。
長浜と秀吉の関係とは?
長浜駅を降りたところから、よく見る秀吉の絵がお出迎えです!
勝利や出世を連想させる縁起物として知られるよ。
秀吉は、ひょうたん型の馬印を使っていたんだ。
天正元年(1573年)、織田信長がこれを滅ぼすと、この地は秀吉が治めることになったんだ。
1582年に本能寺の変で信長が亡くなるあたりまでは、長浜は秀吉の領地だったんだよ。
豊臣秀吉といえば、愛知県あたりのイメージでした。
豊国(ほうこく)神社
神さまとしてまつられているとは!
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太閤さんは、天正二年(1574)の春から長浜城の建築と商家の町並みを造りに着手されました。
その後、約十年のあいだ長浜町に善政を施され、大阪や京都に移住されてからも長浜町民との交流は絶える事なく続いていました。
この現われが天正十九年に公布された『三百石の地租税免除』の朱印状で、幕末まで大きな恩典になりました。太閤さんが、慶長三年(1598)八月十八日に伏見城で逝去されますと、長浜町民は京都の豊国廟にならって逸早く豊國神社を建立しました。
ところが徳川幕府の政権下では、太閤さんを神格化することは許されず、豊國神社は京都と共に取り壊されました。それ以来、町役人十人衆が太閤さんの御神像を各家庭に隠してお祀りしていましたが、
一計を案じて寛政五年(1793)に彦根藩へ『えびす宮』を建立する許可を願い出て一社を建立、
太閤さんを裏に隠してお祀りしました。これが『十日戎』の始まりです。弘化三年(1846)になりますと、太閤さんの恩徳を町民に布撫するために又々一計を練り、
豊臣家の一字をとり『豊神社』と書いて『みのり神社』と呼んでいました。
その名残が東の外堀に架かる「みのり橋」です。明治維新が過ぎ、大正九年(1920)に天下晴れて『豊國神社』と名乗れるようになりますと、太閤さんをお祀りする行事が市民挙げて盛大になりました。
太閤さんの御神霊が不運だった江戸時代に、長浜の先人の発想により前立ち神になって戴いた恵比寿神の祭典も盛大に行っています。
合祀神の木村長門守公は豊臣秀頼公を最後まで守護した人、加藤清正公は太閤さんの腹心の部下であった所以による神々です。
うーん、この文章、神社の由来が書いてあるみたいですけど、なんだか分かったような、分からないような……はて。
天正2年(1574)の春から、長浜城と商家の町並みに着手した、と書いてあるね。
それから約10年の間、長浜の人にとって暮らしが良くなる施策をしていた、ということ。
1574年の10年後には、本能寺の変も一段落し、秀吉自身が大阪や京都で政治を執るようになっているんだけど、その間も交流が続いていたんだね。
天正19年(1591)には、ある程度の税金の免除もされ、これが幕末まで続いたとあって、 長浜の人たちは秀吉に感謝していたことがうかがえるね。
というわけで、秀吉の死後、神社を作ったというわけマボか。
でも、秀吉が死んだあと、徳川の時代になると、神社は壊されることになったと……。
表向きは商売繁盛の恵比寿様を祀る神社。
だけど裏側で秀吉も祀ることにした、ということ。
だからいまでも、豊国神社は「長浜恵比寿宮」も名乗っている。
まとめ
- 滋賀県・長浜市は豊臣秀吉とのつながりが強い町。街中に千成瓢箪の意匠も。
- 秀吉の死後も信仰は続き、徳川の時代には恵比寿信仰に重ねて守り抜くと、明治維新後、豊国神社を名乗れるように。











