【九州三国志】④龍造寺隆信│「五州二島の太守」から「沖田畷の戦い」の壮絶な最期へ

こんにちは、はてはてマンボウです。

今回は、戦国時代の九州地方での三つの勢力による争い、「九州三国志」の記事の続きです。

 


 

 

 


 

今回は、九州三国志の一角、龍造寺家を見ていくよ。
梓

 

下克上大名

龍造寺氏家紋「変わり十二日足」(Wikipedia「龍造寺氏」2023年5月27日確認)

龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、「五州二島の太守」を名乗り、佐賀を中心に九州の北西部に勢力を誇った。

異名は「肥前の熊」

梓

 

『龍造寺隆信像』

(佐賀県立博物館、佐賀)

たしかに、こりゃあクマさんまぼ

強そうな見た目ねえ。

7歳のときから仏門に入り、「円月(えんげつ)」と号していたんだけど、そのときから、まともじゃない腕力を示すエピソードが知られている。
梓

 

円月十五歳の時、寺僧が付近の者と喧嘩し、負けて寺内に逃げ込んで雨戸を閉ざして震えていた。

そこに、外から付近の者六、七人が扉を押し破ろうと戸を叩き怒鳴り散らしたため、円月がただ一人で押さえた。

すると、力があまって扉がはずれ、押し開けようとしていた者たちの上へ倒れかかり、四、五人が扉の下敷きになった。

そのため皆、恐れをなして逃げてしまった。

このようなことがしばしばあり、寺中の老若、付近の者にいたるまで、円月を畏怖したという。

 

佐藤香澄編(2008)『戦国九州三国志―島津・大友・龍造寺の戦い』 学研プラス.

こんなことが、しばしばあったって……まともな腕力じゃないマボねえ。
さて、龍造寺氏は、もともと平安時代から続く大名である少弐(しょうに)氏に仕えていた。

しかし、龍造寺家の傍系の家を継いだ隆信は、少弐氏の当主である少弐冬尚(ふゆひさ)を攻め、これを滅ぼした。
おまけに、龍造寺家の本家の当主が亡くなると、その未亡人を妻にして、本家の家督も継承している。

梓
うおお、下克上マボ。

見た目だけでなく、性格も激しそうマボねえ……。

「五州二島の太守」へ

大友氏との戦い

龍造寺氏の勢力拡大に対し、豊後の大友宗麟がこれを攻撃してくるものの、「今山の戦い」でこれを撃退。

さらに、「耳川の戦い」で大友氏が島津氏に大敗すると、隆信は大友氏の領国や周辺の国衆を従え、一気に勢力を拡大した。

梓

『大友宗麟像』

(大徳寺瑞峯院、京都)

イケイケだった大友宗麟が一気にしぼんでいく隙に、クマさんが強くなっていったわけマボねえ。

慶誾尼(けいぎんに)

隆信の背中を後押ししたのが、その母である慶誾尼(けいぎんに)。隆信に劣らず、この母親も血気盛ん・強引なエピソードにあふれているんだ。

例えば、隆信の近習である鍋島直茂(なべしま・なおしげ)が逸材であることから、直茂の父親・清房(きよふさ)の正室が死去した際には、その後妻となることで直茂の義母となっている

梓

 

英邁剛毅(えいまいごうき)であるが、智略仁愛に欠けるところのある隆信には補佐役が必要……。

そう考えた慶誾尼は、隆信の近習鍋島信生(※直茂の以前の名前)の器量を見込み、その父清房が鰥夫(やもお:妻に先立たれた夫)であるのをよいことに、再婚の世話をすると持ちかけた。

 

婚礼の当日、鍋島屋敷に運び込まれた花嫁の輿から降りてきたのは、なんと慶誾尼本人であった。

 

佐藤香澄編(2008)『戦国九州三国志―島津・大友・龍造寺の戦い』 学研プラス.

奥さんを亡くした人に、
「新しい奥さんの紹介をしますよ~」
と声をかけておいて、当日ジャジャーンと輿から出てきたのが、話を持ち掛けた本人、というわけマボか……。

並みの図太さじゃないマボねえ。

慶誾尼のエピソードはこれだけにとどまらない。

大友氏の総攻撃を撃退した「今山の戦い」で、士気が消沈していた龍造寺陣営の鍋島直茂を叱咤したのもまた、慶誾尼だったという。

梓

 

『九州治乱記』には、敗色が濃厚な中、佐嘉城内で動揺し恐怖に打ち震える家臣たちに向かい、慶誾が

「私の見るところでは、城中の者は皆、敵の猛威に呑まれ、猫に会うた鼠のようだ。
 今夜敵陣に切りかかり、死生二つの勝負を決することこそ男子の本懐ではないか」

と檄を飛ばしたことが描かれる。

(中略)

これが「佐賀の桶狭間」とも称される「今山の戦い」で、隆信の勢力拡大の契機となったといわれる。

佐藤香澄編(2008)『戦国九州三国志―島津・大友・龍造寺の戦い』 学研プラス.

龍造寺隆信の活躍には、慶誾尼の力もあったわけマボねえ。

激しい子供にして、この母親あり、というわけマボか。

 

「沖田畷の戦い」での最期

龍造寺隆信を最も有名にしたのが、悲しいかな、その最期となった「沖田畷の戦い」。

龍造寺氏から離反した有馬晴信(ありま・はるのぶ)を討伐すべく、隆信は島原半島の沖田畷に兵を差し向ける。
龍造寺軍3万余に対し、これを迎え撃ったのは、島津・有馬の連合軍。
兵力差は倍以上あり、島津・有馬方が圧倒的に不利だった。

しかし、島津軍は、これはこれでまともじゃない

梓

 

もともと島津家には、島津軍法という厳しい軍律があり、これが戦場における薩摩隼人の士気をいやが上にも昂揚させた。
すなわち、
「我が隊将の首級を敵に渡すべからず。
このような事態が起こった時は、一隊ことごとく討ち死にせよ。
一人の敵をも殺したる証拠なき者は死罪。
その父子親族まで重科に処せられることあるべし」
という、まことに峻烈なものであるが、沖田畷においても前記訓令の中に、島津軍法の精神が表明されている。

 

吉永正春(2009)『筑前戦国史 増補改訂版』図書出版 海鳥社.

味方が死んだら自分が殺されるし、

誰も殺さなかったら、自分どころか一族郎党殺される……めちゃくちゃマボ……。

この狂気の戦闘集団・島津軍に、龍造寺氏は敗れることとなってしまった。

「畷(なわて)」というのは、湿地帯の中に延びる小道のことを言うんだけど、龍造寺軍は、この畷の一本道に誘い込まれることになる。

最初は優勢だった龍造寺軍は、奥まで深入りしたところで、島津方の伏兵に囲まれ、が弓や鉄砲で一斉射撃を受けることになった。
こうなると、どんどん前進しようとする後続と、後退してくる部隊とで大混乱が起きてしまう。

結果、龍造寺隆信は戦場でその首をとられることになってしまった。

なお、龍造寺氏自体も衰退の一途を辿った結果、豊臣秀吉の取り立てもあった鍋島直茂が佐賀を治めることになっていくんだ。

梓

 

『鍋島直茂像』

( 鍋島報效会、佐賀)

 

下克上をして成り上がり、「九州三国志」の一角まで上り詰めながらも、衰退してしまうとは……激しい性格に似た、激動の人生を送った人だったマボねえ。

 

まとめ

  • 龍造寺隆信は、下克上や大友氏との戦いを経て、九州三国志の一角へ
  • 龍造寺氏の拡大の背景には、隆信の母・慶誾尼による後押しがあった
  • 「沖田畷の戦い」に敗れ、龍造寺隆信が滅ぼされると、龍造寺氏は衰退の一途を辿る

 

参考資料

  • 桐野作人(2010)『関ケ原 島津退き口』学研プラス.
  • 佐藤香澄編(2008)『戦国九州三国志―島津・大友・龍造寺の戦い』 学研プラス.
  • 吉永正春(2009)『筑前戦国史 増補改訂版』図書出版 海鳥社.

 

 

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  1. 大友宗麟/龍造寺隆信/島津義久・義弘│覇権争いの変遷の概要
  2. 大友宗麟/義鎮:豊後(大分)│ザビエルと交友したキリシタン大名
  3. 立花道雪/高橋紹運/立花宗茂│大友家を支えた武将たち
  4. 龍造寺隆信│「五州二島の太守」から「沖田畷の戦い」の壮絶な最期へ
  5. 島津家│九州制覇に手をかけた「戦闘民族」
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