今回は、戦国時代の九州地方での三つの勢力による争い、「九州三国志」の記事の続きです。
【九州三国志】② 大友宗麟/義鎮:豊後(大分)│ザビエルと交友したキリシタン大名
前回までの記事はこちらをチェックしてくれ~
立花道雪
「立花道雪像」
(福厳寺、柳川)
大友氏が九州北部に拡大していたときも、耳川の戦いでの大敗を喫した後も、大黒柱としてさせ続けることになる。
ちなみに、主君である宗麟が出家したタイミングで、彼も出家して道雪を名乗ることになるんだけど、これは、
「道に落ちた雪が消えるまで場所を変えないように、武士もまた、一人の主君に死ぬまで忠義を尽くすべき」
という意味だそうだ。
道雪は若い頃、雷に打たれたことがあり、以降、半身不随になるものの、そのとき雷を切り裂いたともいわれる。
また、養子となった立花宗茂(たちばな・むねしげ)が、子どもの頃、いが栗を踏み抜いてしまったとき、近習に「トゲを抜いて」と頼んだところ、かえって栗を足に押し付けられた上、近くの駕籠の中からは道雪が眉を吊り上げてこれを見ていたため、叫ぶこともできなかった、というエピソードもある。
高橋紹運
「高橋紹運像」
(天叟寺、柳川)
道雪と同じく、耳川の戦い以後の九州北部の大友家の勢力維持に尽力した。
道雪に男子がいなかったことから、嫡男である統虎(むねとら)を婿養子として送り出した。
統虎は後に宗茂を名乗ることになる。
1586年、島津忠長・伊集院忠棟の5万の島津軍に、紹運は徹底抗戦。
これが、岩屋城の戦いだ。
寡兵ながら降伏を拒絶。島津氏の兵を多く打倒した紹運だったが、最後は城を枕に討ち死にすることとなる。
しかし、島津軍の侵攻を遅らせた結果、島津の九州制覇を拒む一因となった。
立花宗茂
大友家臣から秀吉直参の大名へ
「立花宗茂像」
(福巌寺、柳川)
高橋紹運の実の子であり、立花道雪の娘婿でもある。
このような武名のおかげで、九州が秀吉に平定された後も、宗茂は一目置かれる存在となる。
また、「大友家の家臣」という立場から「豊臣直臣の大名」となり、柳川8万石を治めることとなった。
天正十五年(一五七六)四月、筑前秋月の陣にあった九州平定中の秀吉は、宗茂に対し島津攻めの先鋒を命じた。
これは大友家臣としてではなく、秀吉直臣としての参陣であった。
島津攻めにおいても戦果をあげた宗茂は、秀吉から「九州の一物」と評された。
(中略)
宗茂は大友家の被官という立場から脱却し、一個大名として秀吉に取り立てられ、柳川入部を果たした。
佐藤香澄編(2008)『戦国九州三国志―島津・大友・龍造寺の戦い』 学研プラス.
関ヶ原の戦いと島津義弘との帰路
立花勢は、滋賀の大津城を攻め落としたんだけど、関ヶ原後にたどり着くこともないまま、関ヶ原の合戦は1日で終わってしまった。
仕方なく大坂城に退いた宗茂は徹底抗戦のつもりだったが、総大将の毛利輝元が降参してしまったため、柳川に引き上げることになった。
その際、実父・高橋紹運の仇である島津家の島津義弘と同行することになる。
関ヶ原合戦の前の10年間の朝鮮出兵における、朝鮮軍との激戦を通して戦友意識があった、とも指摘されている。
西宮沖(※注:兵庫県)で義弘は立花宗茂とも再開を果たしている。
宗茂は亀寿(※注:島津義久の娘)一行の帰国に援助の手を差しのべたほどで、義弘に個人的な親近感を抱いていた。
……とくに宗茂が義弘の武辺に私淑していた形跡がある。
(中略)
……義弘と宗茂は西宮沖から海路を共にした。
出航から五日目、周防国日向泊(現・山口県大島郡周防大島町)に停泊したとき、宗茂が義弘の船を表敬表門した(惟新公関原御合戦記」)。
「喜悦の余り落涙数行、死を迯るゝの幸ひを賀し、往時談じ、再会を期して相別る」
(※注:「喜びのあまり涙がいくつも流れ、死を免れた幸運を祝い、昔話を語り合い、再会を約束して別れを交わした」)
武勇で知られた二人の戦国大名が再会して互いに落涙するほど喜んだというのだから、関ヶ原合戦の苦難はやはり相当なものだったのだろう。
桐野作人(2010)『関ケ原 島津退き口』学研プラス.
改易と旧領の回復
宗茂は柳川上で籠城の構えも見せたけれども、黒田如水や加藤清正の説得を受け、降伏することに。
その後、宗茂は改易されて浪人となってしまうんだ。
その後、江戸で蟄居(ちっきょ、部屋の中での謹慎)の生活を送ることとなるんだけど、その実力を評価する江戸幕府から1万石を与えられて大名として復帰することになる。
その後、大坂の陣での参陣などを経て、旧領の柳川10万9,200石を与えられることになる。
関ヶ原の合戦に西軍として参戦したのち、改易されてから旧領に復帰した、唯一の大名となったんだ。
実力に加えて、人としての魅力やエピソードに事欠かない人たちばかりとは、初めて知りました、はってはて♪
まとめ
- 立花道雪は「雷を切り裂いた」異名も持ち、大友家に忠義を尽くした武将だった
- 立花宗茂の実父である高橋紹運が岩屋城で奮戦したことが、島津勢の九州制覇を阻むことに
- 立花宗茂は関ヶ原の合戦で敗北した西軍の将のうち、唯一旧領を回復した大名となった
参考資料
- 桐野作人(2010)『関ケ原 島津退き口』学研プラス.
- 佐藤香澄編(2008)『戦国九州三国志―島津・大友・龍造寺の戦い』 学研プラス.
- 吉永正春(2009)『筑前戦国史 増補改訂版』図書出版 海鳥社.
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