今回は、戦国武将の呼び名のお話の続きです。
前の記事をチェックしたい人は、こちらを見てくれ~
今回は戦国大名の苗字や法号から彼らの呼び名について見ていこう。
氏と苗字
木下藤吉郎秀吉→羽柴藤吉郎秀吉→羽柴筑前守秀吉→豊臣関白太政大臣秀吉
木下藤吉郎秀吉
(『センゴク』1巻より)
前回も出てきたマボ。
羽柴藤吉郎秀吉
(『センゴク』8巻より)
「藤吉郎」改め
「筑前守(ちくぜんのかみ)」が通称となる。
羽柴筑前守秀吉
(『センゴク天正記』5巻より)
豊臣関白太政大臣秀吉
(『センゴク権兵衛』11巻より)
秀吉の「太政大臣」という職の唐名が「相国」だったからだ。
「唐名」の話も前回の記事で見ました、マボ。
それじゃあ、秀吉は「羽柴」から「豊臣」に苗字が変わったということですかね。
豊臣という氏と、羽柴という苗字
源氏とか平氏って言うよね。
血縁関係によって、集団を分けていたんだ。
「藤原氏」とか「源氏」とかもう何人いるんだ!ってぐらいにね。
教科書の「索引」でもすごい数だ。
安藤達朗(2016)
『いっきに学び直す日本史』(東洋経済新報社)
「足利」とか「武田」とかね。地名なんかに由来して、勝手に名乗ることができる。
いまでも、別の土地に住んでいる親戚を「大阪の叔父さん」とか「福岡の叔母さん」とか呼ぶことがあるよね。
地名によって呼び分ける。
そして、足利も武田も、辿っていくと同じ「源氏」に行きつくんだ。
だから、武田信玄は源信玄でもある。
歌川芳虎
『武者絵 源晴信 山県昌景』
「武田晴信」であると同時に、
「源晴信」でもあったんだ。
1つだけ名乗っておけばいいのに、はて。
藤原氏は多くの公家を輩出した朝廷の一大勢力、
源氏と平氏は元を辿ると皇族に行きつく。
なんだかんだ言って、そういう血筋を名乗れるっていうのは名誉だったんだ。
それが子や孫やもっと後の代まで続いていく感じですかねえ。
足利さん、武田さん、とね。
こういう一族は、「氏」と「苗字」の二枚看板持ち。
地名とかから借りて、勝手に苗字を名乗るようになる。
当時の織田家の実力者だった
丹羽長秀の「羽」の字と、
柴田勝家の「柴」
の字をもらったと言われている。
そうやって苗字を勝手に作れた秀吉も、歴史ある氏を堂々と詐称することは難しい。
農民出身の秀吉が、藤原氏や源氏・平氏の流れなわけないだろうってみんな知っているからね。
でも、天下人としては権威が欲しい。
それで「豊臣」という氏を朝廷に新設させた。
「豊臣秀吉」と名乗ることもできたし、
「羽柴秀吉」と名乗ることもできた。
だけど、「豊臣」の歴史は浅いから他の人たちと見分ける必要は薄い。
それにせっかく形作った権威だというわけで「豊臣秀吉」と名乗る回数が増え、
「羽柴」と名乗る回数は減っていくんだ。
法号
武田法性院信玄
(『センゴク』8巻より)
上杉不識庵謙信
(『センゴク天正記』6巻より)
出家したとき、仏の道に生まれ変わったとして「晴信」から「信玄」と新たな名乗りをするわけだ。
「信玄」は諱だね。
一方、「法性院」は「院号」といって仏教に大きく貢献をした者に贈られる。
信玄は恵林寺をはじめ領内の仏教を保護していたんだ。
次に、謙信。
謙信は法号。
不識庵は「庵号」といって、やはり仏教への貢献者に贈られる称号だ。
これで、マンガやドラマを見るのが一層楽しくなりそうです、はってはて♪
まとめ
- 氏族の「氏」をさらに細かく分けたものが「苗字」。昔はこれらが区別されていた。
- 秀吉は「氏」の豊臣も「苗字」の羽柴も同時に名乗っていた。
- 出家した戦国大名が名乗っていたのは「法号」。
参考文献
- 安藤達朗(2016)『いっきに学び直す日本史』(東洋経済新報社)
- 宮下英樹『センゴク』(講談社)
- 宮下英樹『センゴク天正記』(講談社)
- 宮下英樹『センゴク一統記』(講談社)
- 宮下英樹『センゴク権兵衛』(講談社)