今回は
仏教の宗派
シリーズ第3弾です。
前の記事を見たい方はこちらをチェックしてくれ~
浄土宗と浄土真宗
について見ていくよ。
目次
平安末期の社会不安……「ナンマイダ」はここから
しかし、平安時代末期になってくると、様相が変わってくる。
平安時代の末、
律令制が崩れて武力が社会を支配する時代が訪れた。
そんな中で人々は地獄行きの不安に囚われ、
末法思想と言う一種の終末論に悩まされた。
天台僧の源信(九四二~一〇一七)は
『往生要集』(おうじょう ようしゅう)を著し、
地獄を描写するとともに、
極楽往生の技法のひとつとして、「南無阿弥陀仏」と唱える念仏を推奨した。
中村圭志(2016)
『教養としての仏教入門 身近な17キーワードから学ぶ 』
(幻冬舎新書)
という僧侶が現れ、
念仏を唱えて阿弥陀仏にすがるようお勧めしていた。
これが、「南無阿弥陀仏」だ。
阿弥陀如来
(高徳院、神奈川)
阿弥陀仏は極楽浄土に連れて行ってくれる如来。
社会不安の中、貴族も庶民もその力にすがろうとしたんだ。
「南無・阿弥陀仏」で
「阿弥陀さまにおすがりします」
という意味だ。
浄土宗:とにかく念仏
『披講の御影(隆信御影)』
(知恩院、京都)
「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」
という考えのもと教えを説いたのが、
法然(ほうねん)だ。
京都・東山三十六峰のひとつである華頂山のふもとに、大小数多くの伽藍がひろがる、浄土宗総本山知恩院。
その壮大な佇まいは厳粛な中にもおおらかな雰囲気をたたえ、お念仏のみ教え発祥の地にふさわしく、人々を迎え入れてきました。「浄土宗総本山 知恩院」より
浄土真宗:念仏すら不要!?
とにかく「他力本願」
安城御影
(西本願寺、京都)
とにかく阿弥陀仏に頼る。
だから「他力本願」。
念仏すら不要だ、
と言った。
彼(法然)は
「極楽浄土に行くには往生したいと自ら願い、念仏を称えることが大切だ」
と説きました。
しかし、親鸞の浄土真宗になると他力の度合いが強まっていき、
「わざわざ願わずとも、阿弥陀様のほうから手を差し伸べて浄土に呼び寄せてくれるのだから、私たちは何もする必要はない」
と考えるようになっていきました。
そうなると念仏を唱える意味も変化します。
「すでに私たちは極楽に行くことが約束されているのだから、念仏は願うためではなく感謝のために称えるのだ」
と親鸞は説いています。
佐々木閑(2017)
『別冊100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した 』
(NHK出版)
戦国時代の「一向一揆」
月岡芳年(1873)
『大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内』
一向宗(いっこう しゅう)
とも言われた。
戦国時代、門徒は結束して大名と戦った。
「すがるのは阿弥陀仏だけ! 大名、なんぼのもんじゃ!」
って感じかな。
一向一揆(いっこう いっき)とも言うね。
西本願寺と東本願寺……分かれた理由は?
「西本願寺」
「東本願寺」だ。
これが、
「浄土真宗本願寺派」の西本願寺と、
「真宗大谷派」の東本願寺になった。
ちなみに西本願寺の正式名称は「本願寺」、
東本願寺の正式名称は「真宗本廟」と言う。
……長男・教如(きょうにょ)上人が跡を継がれたが、
三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた譲状(ゆずりじょう)があったので、
教如上人は隠退して裏方(うらかた)と呼ばれた。
これには大坂本願寺の退去に際して、講和を受けいれた顕如上人の退去派と信長との徹底抗戦をとなえた教如上人の籠城派との対立が背景にあった。
その後、教如上人は徳川家康に接近し、
慶長(けいちょう)7年(1602)、
家康から烏丸七条に寺地を寄進され、翌年ここに御堂を建立した。
これが大谷派本願寺の起源で、この時から本願寺が西と東に分立したのである。
……顕如上人の長男教如上人(1558~1614)は、
父顕如上人と意見が対立し、
大坂(石山)本願寺に籠城したため義絶された。
天正10年(1582)に義絶は解かれ、
天正13年(1585)本願寺は豊臣秀吉により大坂天満に再興。
さらに天正19年(1591)京都堀川七条に本願寺(現在の西本願寺:浄土真宗本願寺派の本山)は移転した。
顕如上人没後、一度は教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠退処分をうけ、
弟(三男)の准如上人が継職した。
しかし、その後も教如上人は活動を続け、
慶長3年(1598)秀吉没、
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを経て、
慶長7年(1602)京都烏丸六条・七条間の地を徳川家康から寄進される。
……同年(1603年)阿弥陀堂建立。
慶長9年(1604)御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立した。
これが当派の本山である「真宗本廟」のなりたちであり、
教如上人を「東本願寺創立の上人」とするゆえんである。
長男が東本願寺を別に建てた、
というところだね。
分かれて建てられたのに、
西本願寺と東本願寺は1キロぐらいしか離れていない、
というのも興味深い。
勉強になったまぼよ。
まとめ
- 平安末期の社会不安から「阿弥陀仏にすがりたい!」という思いが広まった。
- とにかく「南無阿弥陀仏」を唱えるのが浄土宗。
- 「念仏はいらない! 感謝のためだけに唱えること」と説いたのが浄土真宗。
- 浄土真宗は一向宗とも呼ばれ、自治権を求めた「一向一揆」で闘った。
- 浄土真宗は江戸時代はじめ、東西に分かれた。
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参考文献
- 佐々木閑(2017)『別冊100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した 』(NHK出版)
- 中村圭志(2016)『教養としての仏教入門 身近な17キーワードから学ぶ 』(幻冬舎新書)
集中講義大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した (教養・文化シリーズ 別冊NHK100分de名著) [ 佐々木閑 ] 価格:990円 |
教養としての仏教入門 身近な17キーワードから学ぶ (幻冬舎新書) [ 中村圭志 ] 価格:924円 |